コミューヌの壁:さくらんぼの実る頃

良くも悪くも歴史に選び取られたとでも思うしかない「特別なとき」がある。この「特別なとき」の絡み合いで、歴史という物語は組み立てられているかのように。

1871年、パリ・コミューヌ最後の闘い。5月21日から28日、本来なら初夏の陽射しに溢れた美しい季節というに過ぎなかったであろう日々もまた、「血の週間」と呼ばれる特別な一週間となった。

パリ南西のセーヌ沿いに、満を持してヴェルサイユ政府軍が攻め込むと、素人の混成部隊では歯の立つわけもない。必死の抵抗むなしく追いつめられたコミューヌの兵士たちが、最後に立て籠もったのは東部丘陵地帯に位置する広大な霊園、ペール・ラシェーズだった。

退路を断たれ、絶望的な白兵戦の挙げ句とらえられた百数十名は壁に沿って並ばされ、次々に銃殺されていった‥‥。

簡単に経緯を振り返ってみよう。

新興国家プロシアの挑発に乗って宣戦布告したナポレオン3世は、国境地域での戦闘に敗れて捕虜となり、フランス第二帝政はあえなく終わりを告げる。これが1870年9月。

皇帝政権に代わった臨時国防政府は戦争終結を目指す。プロシアによる首府包囲の中、素朴な愛国意識から国民軍に志願した労働者、市民の戦意は高く、及び腰の政府方針に不信を覚えるとその不信感を共有していく。

日に日に尖鋭化し、政府への反発を高めていく民衆に恐れを抱いた政府は、プロシアとの和平を急ぐ。急げば急ぐほど和平条件はフランスの譲歩を強いる内容となる。民衆の不平不満はいっそう募る‥‥。

このスパイラルに入り込むと後戻りはきかない。

ついに立ち上がった民衆は、政府をパリからヴェルサイユへと追い払い、コミューヌの樹立を宣言。ここに民衆の自発的直接的な意思による自治権力が出現することとなる。

‥‥しかしながら、所詮は自然発生的な盛り上がり、熱狂の延長だった。それぞれの熱情に衝き動かされてとは言っても、あまりに事態は切迫し、あまりに準備不足時間不足だった。明確な展望や方向性を打ち立てるに至らぬまま。

高みの見物とばかり、じっくり包囲をつづけるプロシア。内部混乱によるコミューヌの弱体化。機を見て怒濤のごとく押し寄せる政府軍。最後の一週間は、血で血を洗う、酸鼻をきわめるものになった。

時あたかも、さくらんぼの実る頃。

日本でもスタジオジブリの映画「紅の豚」で加藤登紀子が唄うなど、お馴染みのシャンソン「さくらんぼの実る頃」は、この内戦を背景にしている。

決して癒されることのない疵(きず)、記憶にとどめ、さくらんぼの季節をいとおしむ‥‥。直接的に戦闘を表した言葉はないけれど、そこには深い愛惜がある。

作詞者、ジャンバティスト・クレマンはコミューヌに参加した「生き残り」でもあった。コミューヌの壁に向き合うように、彼は眠る。

小鳥たちはさえずり、木々の緑に風が吹きわたっていく。146回目の「血の週間」。訪れた日、クレマンの墓石には5輪の赤いカーネーションが捧げられていた。