モベール広場界隈

パリ5区北部の学生街に位置するモベール広場は、サン・ジェルマン大通りに貫かれ、クリュニー中世美術館にもパンテオンにもノートルダム寺院にも近い。マルシェの立つ広場に面して肉屋、八百屋、チーズ、魚介類にワインと食料品店が並び、カフェに客の姿は絶えない。気取らぬレストランや廉価なエスニック料理店も多い。

便利でありながら寛ろげる、賑やかでありながら落ち着けるこのあたりが、20世紀初めあたりまでまともな市民なら眉をひそめるような地域だったと聞くと、だから狐につままれたような気持ちになる。

中世にはカルティエ・ラタンの一角として、修道院と寄宿学校の立つ静かな宗教的学業の地だった。それが絞首台はじめ処刑器具が設置され刑場となったのが14世紀。

以来雰囲気は一変し、いつしかゴロツキや悪党、ならず者や陰謀家、あやしげな連中が住みつき、さらに浮浪者、アルコール中毒者、最底辺の売笑婦などの吹き溜まりになっていったという。

書店でたまたま手にして拾い読みしたウンベルト・エーコ「プラハの墓地」を衝動買いしてしまったのも、19世紀末のこの地が舞台になっていたからだった。

ナチスのユダヤ人虐殺を正当化する根拠となったとされる「シオン賢者の議定書」、これは史上最悪の偽書と呼ばれるものだが、その謎めいた偽書を世に送り出した男の物語。

モベール袋小路

主人公の文書偽造家は広場の近く、フレデリック・ソートン街から枝分かれしたモベール袋小路の突き当たりに古道具屋の看板を出し、ひっそり暮らしていたという設定だ。

博覧強記のエーコから物語の舞台に選ばれ、いっそうこの地には箔が付いたと言っては語弊があるだろうか。なにしろ世界史を手玉に取ったいかがわしさ、胡散臭さの立ち昇ってきた地として選ばれたことになるのだから。

フレデリック・ソートン街、メートル・アルベール街と入り組んだ小路には、現在でも華やかなパリとは別の空気が漂っている。バー、画廊、ホテル、タトゥーの店と並んで家具や美術装飾修理作業場が口を開けていたりする。しかし昼下がりの街は人影もまばらで、いくぶん湿っぽい。

密集した古い家屋の連らなる通りからは想像もつかないけれど、このあたりの地下は網の目状につながっていた(る?)というから、神出鬼没の往来自由、反抗する人びとにとって格好の装置をなしていたに違いない。

トゥルネル河岸

トゥルネル河岸に出ると視界がひらけ、ノートルダム大聖堂のセーヌ川沿いに立つ姿を目の当たりにできる。ブキニストに並ぶ古書、古新聞、古ポスター、古絵葉書などを眺めながら、セーヌ越しにシテ島の緑地から大聖堂をゆっくり見渡す。

行きずりの客や観光客の少ないカフェを選べば、地元住民たちの飾らぬ日常生活がそこには息づいている。陽射しの気持ちよい季節なら、テラス席で生ビールを一杯。しんしんと冷え込む冬の曇り空なら、カウンターの常連客が見える奥で温かいカフェ・クレームを。

河岸からメートル・アルベール街と平行するように延びる、ビエーヴル街へ。ここはかつてセーヌに流れ込む小川、ビエーヴル川の流れていたところ。ビエーヴルとはビーバーのことだから、古代ローマ帝国系の人びとが流れつき、修道院や学寮の建てられた頃にはビーバーのいる清流だったのかもしれない。

人びとが集まり都市化の波と共に、牧歌的な光景は消滅していく。染色や革のなめし業者が川水を利用して、零細な作業場を構えるようになる。需要に応じて作業場が密集してくれば、やがてその汚染は衛生上の問題となり、立ち昇る悪臭は市民生活を耐えがたいものにする。スラム化していく場末のひとつの典型とも言えそうだ‥‥。

ダニエル・ミッテラン小公園

ありがちな過程を経て、19世紀半ばから一世紀に及ぶ工事で、川はすっかり暗渠となった。というわけで、地下には網の目状に迷路がひろがると同時に、川まで流れ込んでいることになるのだろうか。

このビエーヴル街再開発地域に居を定めたのが、社会党初の大統領ミッテランだった。道の中ほどの小公園は、大統領とは対独レジスタンスの同志にして社会運動家、この街の良き住民であったミッテラン夫人の名が冠せられている。

はじめてこの街を訪れた80年代、警備の車輛と警官たちの姿のあったことを思い出す。

ならず者たちの街はこうして、ミッテラン夫妻の存在で最終的なイメージ転換に成功したのだろうか。‥‥それともいまだ奥深い小路の一角に、息をひそめる者たちがいるのだろうか。

川の流れをたどるように道を進むとサン・ジェルマン大通り。再びモベール広場が目の前にひろがる。