グラン・ブルヴァールを行く  その3

レピュブリック広場からタンプル大通りへ

ひとがいなければ、自動車だらけの大通りに囲まれただだっ広い大広場でしかないレピュブリック広場。ここはひとあってこその広場、民衆の巨大な集会場と呼ぶにふさわしい。人びとが主役の大舞台を見守るのはマリアンヌ、フランス共和国を擬人化した「自由の女神」だ。

もっともレピュブリック(共和国)の名が与えられ、巨大なマリアンヌの設置されたのは、19世紀も末の第三共和制が成立してからのこと。広場そのものの整備はそれに先立つ第二帝政時代、知事オスマンによるパリ改造にさかのぼる。

帝国の首府・パリを構築するため、オスマンは大規模な都市改造を計画し実施していく。幹線道路を整え、それらの結節点となる広場を建設し‥‥ひとつの典型的な例がここだった。中世的な混沌から機能的な近代都市へ。グラン・ブルヴァールもまた、オスマンの都市計画によって新たな展開を遂げていく。

オスマンが何より評価されていいのは、現にある街を単純に切り捨てて作り変えるのではなく、歳月を経てそこに息づいてきたものを取り込もうとした姿勢だろう。ルイ14世時代の都市計画の成果であるグラン・ブルヴァールも、可能な限りあらたな時代に生かされていく方向で改造は進められた。

ただ彼は帝政の有能な官僚であるから、パリの都市改造には統治者としての思惑の組み込まれていたことも忘れてはならない。バリケードを築いてはノンを突きつける民衆、その反乱対策としての側面を持っていた。側面というより、主眼のひとつだったと言えるかもしれない。それほど為政者にとってパリの民衆は手強い存在だった。

道幅広く見晴らしのよい通りと広場の組み合わせは、バリケードの拠点づくりを困難にすると同時に軍部の出動を機動的なものにした。もっとも‥‥それでもパリ・コミューヌの民衆は立ちあがったし、それでも第二次大戦戦時下にレジスタンスのネットワークは深く根を下ろした。

タンプル大通りは、オスマンの都市改造で大幅な「改造」を余儀なくされた街区のひとつ。民衆にもっとも人気のある劇場が軒を連ね、そこで取り上げられる演目は切った張ったの刃傷沙汰、犯罪にかかわるものが多かったため、いつしか「犯罪大通り」と呼ばれていた‥‥。

ここを舞台にした映画として名高いのがマルセル・カルネ「天井桟敷の人々」で、興行街として賑わいを見せる18世紀の姿が活写されている。レピュブリック広場とヴォルテール大通りの整備・建設で消滅させられた劇場は、現在の広場からタンプル大通りの偶数番地側にかけて並んでいたという。

フィーユ・デュ・カルヴェール、そしてボーマルシェへ

十字軍で富を蓄え王権を脅かす勢力を誇った騎士団に由来するタンプルから女子修道院に由来するフィーユ・デュ・カルヴェールへ。こうして名前の由来を見ると、数多くの宗教施設がいかに広大な土地を占有していたか思い知らされる。

メトロの駅、すぐ左手にシルク・ド・イヴェール(冬のサーカス)。ここは現在パリに残る唯一の常設サーカス小屋で、冬の休暇には家族づれで賑わう。だからと言ってお子様対象という意味ではない。古い歴史を誇り国立のサーカス学校まであるお国柄、身体能力の高いメリハリのある演技には、老若男女問わず酔わされるだろう。

このあたりから次第に街の表情が変わってくる。右手は地元民にも観光客にも根強い人気の、パリの市街としても古い歴史を誇るマレ地区、左手はBOBO(ブルジョワ・ボヘミアン)はじめ若者の集まる活気に満ちた街区とあれば、当たり前かもしれない。

それにしても、マドレーヌの賑わいともモンマルトルの賑わいとも違う。この賑わいをどう表現すればいいだろう。賑わいの内にある活力、勢い‥‥ここから何かが生まれ、何かが起こるかもしれない、鼓動のような予兆のような、明日につながる何かを感じさせる‥‥とでも言えばいいだろうか。

バスティーユ広場へ

レピュブリック広場からバスティーユ広場にかけて、特に目立った政府機関があるわけではなく、軍事施設があるわけでもない、ごく普通に人びとが集まりデモ行進する場所。また劇場やディスコ、映画館、レストランやカフェでリフレッシュする盛り場。この、ブルヴァールに沿って延びる地が2015年1月のシャルリ・エブド襲撃事件、11月の同時多発テロ事件の主要な舞台になった。

風刺新聞という言論機関、そしてそれにつづく民間の一般人が無差別に攻撃を受けマトにされたテロは、心身共に民衆を深く傷つけるものだった。パリ市民に限らずフランス人にとどまらず、広く世界に生きる者にとって。

‥‥以来、この地は追憶、コメモラシオンcommémoration、起こった事件の記憶を共有し共有させる場として強く意識されることになった。そのための記念碑が作られ、催しが開かれ、ブルヴァールにまたひとつ、大きな意味が刻印された。

事件、出来事を風化させることなく、なし崩しの忘却の淵に沈めることなく、まして事実をねじまげ歪曲することなく、記憶を記憶として呼び覚まし、共有し、伝えつなげていく。現実を直視し、決して忘れない。悲惨な歴史を経験し、乗り越えてきた人びとの獲得した叡智はそう語りかけてくる。

‥‥街のたたずまいの本当の意味は、そこに暮らし生きた人びとの歴史が刻み込まれていることにある。実際に生活していた人びとが去っても、その地を訪れた者はそこで読み取り、感じ取る。そして歴史を共有する。どこから来た者であれ、いつ来た者であれ‥‥。

ボーマルシェと名を替え、前方に1830年七月革命の記念碑、七月の円柱が見えてくる。品のいい老夫婦が手をつないでゆっくり散歩している。彼らの話すのは英語。道端のキオスクで絵葉書を選ぶ家族が喋るのは北京語だろうか広東語だろうか。見渡せばさまざまな人種さまざまな言語が、行き交い飛び交う。ゲイのカップルもいれば、マンガのコステュームをまとった若者もいる、犬を連れた物乞いもいる。

規模の大きい露天マルシェで名高いリシャール・ルノアール大通りと合流すると、もうそこはバスティーユ広場。グラン・ブルヴァール巡りも終点に到着した。

グラン・ブルヴァールを行く  その2 » 遊歩舎
モンマルトルからポワソニエール、ボンヌ・ヌーヴェルへ モンマルトル大通りの賑わいは、いくぶん縁日のそれに似ている。出発点だったマドレーヌとはだいぶ異なる、東京で言えば上野浅草、京都で言えば京極新京極。決してファッショナブ …
グラン・ブルヴァールを行く  その1 » 遊歩舎
17世紀後半、太陽王ルイ14世治下、無用になった城壁を壊し堀を埋め立て整備された大通り、グラン・ブルヴァール。マドレーヌ広場からバスティーユ広場まで11通り、名を替えながら大きな弧を描いてつづいている。 造られた当初は町 …

返事を書く

CAPTCHA