グラン・ブルヴァールを行く  その1

17世紀後半、太陽王ルイ14世治下、無用になった城壁を壊し堀を埋め立て整備された大通り、グラン・ブルヴァール。マドレーヌ広場からバスティーユ広場まで11通り、名を替えながら大きな弧を描いてつづいている。

造られた当初は町外れの場末も、18世紀半ばには次第に繁華街へと成長し、パリで最初に乗り合い馬車の走ったのもこの路線だった(1828年)。以降ベル・エポックにかけてはパリ随一の文化の発信地。それもシックな西と庶民的な活気を示す東、この大通り沿いに二つの対照的な文化がそれぞれの洗練を競い、華開いた。

マドレーヌ、広場から大通りへ

マドレーヌ寺院、正面

マドレーヌ(マグダラのマリア)を祀る寺院の壮大さ、しかもカトリック教会ではあまり見掛けぬ古代ギリシア神殿様式であることにまずは驚かされる。そしてこの建築様式を命じたのがかのナポレオンであると知り、やはり、と納得した気分になる。もともとカトリック教会として計画されたわけではないこの建築物が、マドレーヌ寺院となったのは彼の失脚後だったのだ。

寺院前の階段からセーヌ方面を遠望すると、ロワイヤル街からコンコルド広場のオベリスク、そしてセーヌ対岸の国民議会ブルボン宮が一直線に並んでいる。この国民議会正面もギリシア神殿風の列柱で、オベリスクを中心にちょうどマドレーヌの列柱と向き合う形になっている。

こういうこだわり。国民議会ブルボン宮の古代ギリシア神殿風建築もナポレオンの命によるから、彼(というより、その取り巻きチーム・ナポレオンとでも呼んだ方が正確かもしれない)が、いかに古代ギリシア神殿風デザインに執着していたかが伝わってくる。

皇帝という地位を正当化し、演出するものとしてのローマ帝国皇帝。ナポレオンの像はシーザーを思わせる古代的な衣裳をまとい、月桂冠を頭にする。その舞台に古代ギリシア神殿風光景は欠かせぬ大道具だったというわけだろうか。

寺院をめぐる広場には花屋とフォーション、マイヨなど日本でも名前の知られた高級食材店が軒を連らね、周囲には服飾の有名ブランドの並ぶ商店街が口を開けている。日本語の響きが恋しくなったときには、ここへ来れば間違いなく聞こえてくる。ただし男性の声は滅多に耳に入ってこない。

カプシーヌからイタリアン

コーマルタン街を越え、カプシーヌと名を替えるとすぐ左手にオランピア劇場。コンサート・ホールとして、シャンソンファンにとって一つの聖地でもある。唄と歌手と聴衆の幸福な出会いの場として。実際多くのビッグネームがここで歌い、彼らにとって最高の出来だと言えるコンサートの実現したのもここだった。

オペラ大通りと交叉するあたりには有名ブティックや一流ホテルが並ぶ。今でももっとも風格を感じさせる街区の一つ。オペラ大通り左手に鎮座するオペラ座ガルニエ宮は第二帝政(1852〜70)を象徴する建造物で、その威容に圧倒される。圧倒しようと造られた意図が、こうもあからさまに身体に響いてくる建造物は珍しい、と表現しておこう。

交差点角1862年開業のカフェ・ド・ラ・ペは、黄金色のアクセントとフレスコ画の豪華な内装でオペラ座とセット、第二帝政の舞台装置と呼ぶにふさわしい。テラス席で一服して、ナポレオンの甥がナポレオン三世を名乗って統治した時代、ちょうど幕末日本が開国して欧米列強に門戸を開放した時代に思いを馳せるのも悪くない。

オペラ座正面をゆっくり目に焼き付けながら、ナポレオン三世の下パリ改造を担ったオスマンの傑作、オペラ大通りを渡る。やがて左手にショセ・ダンタン街、その突き当たりに聳えるのがサント・トリニテ教会。ここで大通りの名はイタリアンに替わる。

19世紀からベル・エポックのパリを舞台にした小説や演劇、映画を少しでも齧ったことのある者にとって、イタリアン大通りの名は特別の響きを持っている。モードの尖端、その発信の場として王政復古期、七月王政期、第二帝政期、世紀末そしてベル・エポックと、それぞれの時代を彩る伊達男、洒落女の往き来したのがここだった。

カフェ・アングレ、カフェ・トルニーニをはじめ、彼らの集まり行き交う有名店が軒を連らねて不夜城の趣を呈していたというから、「19世紀の首府」パリの放つ光の部分を代表していたと言っても差し支えないだろう。

‥‥そういう想いでこの街を行くと、いささか悲哀感にとらわれる。今やファストフード店と映画館、そして巨大な金融機関のいかめしげな建物ばかりが目につくから。

ラフィット街を渡る

街路の奥にノートルダム・ロレット教会、その上にかぶさるようにサクレクール寺院の見えるラフィット街を通り越した20番地、現在は銀行となった建物の前面に、かろうじてラ・メゾン・ドレの面影が残る。バルザック、ユゴー、ネルヴァル、フロベール、ゴンクール兄弟が常連だったとのプレート付きで。

街の持つ力とは何なのだろう。

街を変えていく力とは何のだろう。

向かいはオペラ・コミック座。この一座の役者にイタリア人が多かったのかイタリア風の装いの者が多かったのか、ともかく街の名イタリアンはこの劇場に由来する、という話をどこかで読んだか聞いたかした覚えがある。しかし、確実ではない。第二帝政期を象徴するオッフェンバックのオペレッタと結びついて記憶されている、とだけ記しておくことにする。

イタリアン大通りはオスマン大通りと合流して、モンマルトル大通りと名を替える。

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