シテ島西端で左岸と右岸をつなぐポン・ヌフの、中央に立つアンリ4世騎馬像は、セーヌを背にして歩を進めようとしている。その、今まさに向かわんとしている先がドーフィーヌ広場だ。
史上名高い「ナントの勅令」で旧教と新教の和解に漕ぎつけ、宗教戦争を乗り切ったアンリ4世は、ポン・ヌフを建設すると1607年、ロワイヤル広場(現ヴォージュ広場)とドーフィーヌ広場の建造に取り組む。
平和な時代がやってくれば、なにか大きなものを造りたくなる。統治者心理とはそういうものらしい。
騎馬像前から広場に向かうアンリ・ロベール街を挟むように対をなす建物は当時の外観を残している。言われてみれば、ヴォージュ広場を囲む建物と同じ赤っぽいレンガの組み込まれた色づかいといい、共通するセンスがある。いわばアンリ4世好みのデザインといったところだろうか。
アンリ・ロベール街を進むと視界がひらけ、二等辺三角形をした土地の頂点に立っていることに気づく。カフェやレストランなどの入った建物の並びが左右の辺となって広がり、底辺にあたる正面は最高裁判所。
建物に囲まれているというだけで喧噪を離れ噓のように静かで、陽を遮らないほどの間隔で植えられた木立ちのあいだでくつろぎを覚える。パリの真ん中のシテ島に、これほど落ち着ける空間のあることが驚きだ。
それも人の住まぬ閑散とした光景ではない。ペタンクに興じるグループもあれば、犬を散歩させているムッシュもいる、子どもと手をつなぐ若い夫婦もいる。裁判所の一辺以外の二辺は人びとの営みの感じられる場を作り出している。
15番地には往年のフランス映画界きっての人気俳優夫婦、シモーニュ・シニョレとイヴ・モンタンが暮らしていた。なかなか陽の沈まぬ夏の宵など、アパルトマン前のベンチで夫婦揃って夕涼みなどということもあったかもしれない。
建物一階は今ではギャラリーになっていて、ここで個展を開いていた日本人画家と知り合いになった。毎年一度パリで個展を開く。それが励みになって、毎日絵筆を握れると言っていた。知り合いになったときすでに癌に冒されていた画家にとって、最後の個展になってしまったのだが。
‥‥それでなくとも、この広場には特別な親しみを覚えていた。初めてパリを訪れたときからリピーターへと中毒症状?の昂じていくなか、パリ徘徊(散歩)はジョルジュ・シムノンのメグレ警視シリーズに登場する場所巡りという形でなされたからだ。
パイプをくわえたメグレが窓からセーヌを眺めていた司法警察は、裁判所に接するオルフェーヴル河岸にあるから、すぐ目と鼻の先に位置していて、なにかというとメグレはこの広場に面したカフェで一杯ひっかけた。
訊問や事情聴取が深夜に及ぶときには、サンドウィッチと生ビールを配達してもらう。取り調べを受ける重要参考人の気分を味わおうというわけではないけれど、このサンドウィッチと生ビールを求めて、パリ徘徊はここからスタートした。
オルフェーヴル河岸から一歩入るだけで、ほっと息のつける空間がある。‥‥パリという街はこういう仕掛けになっているのか。一歩入る、それが肝腎なんだ。メグレはこう言っているように感じた。
メグレ警視にとどまらない。少し気をつけると、多くの小説や映画、写真集にこの広場の登場しているのが分かる。
そのなかから印象的なものをひとつ。シュルレアリスト、アンドレ・ブルトンの「ナジャ」では次のように描かれる。少し長くなるが、巖谷國士の翻訳を写しとっておこう。
‥‥まさに私の知るかぎりもっとも深く引きこもった場所のひとつであり、パリでもいちばんよからぬ空地のひとつである。私はそこへやってくるたびに、他所へ行きたい気持がどんどん薄らいでゆくのを感じたもので、やけに優しく、快すぎるほどしつこく絡みつき、ついには私を粉々にしてしまう一種の抱擁から逃れるために、自分自身を説き伏せなければならないほどだった。
アンドレ・ブルトンはこの三角形をした広場に、パリという名の女性(都市villeは女性名詞)の下腹部を感じ取っている。
その感受性に共感するかどうかはおまかせするとして、判断の一助となるよう地図を掲げておくことにした。