大理石、ブロンズ、木材、材質はさまざまあっても像は像、いかにひとの姿をうつそうが本人ではない。
充分承知はしていても、ときに笑いかけ、ときに手を合わせ、ときに呆然と感じ入る。われわれは思い入れの生き物。思わず手で触れ、撫でさすり、こすりまわし‥‥とエスカレートすることだってある。
今回はエスカレートされることで名高い?パリの像たち3名に登場していただく。
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まずは16世紀フランス・ルネッサンスを代表する思索者、モンテーニュ。ク・セ・ジュ(わたしは何を知っているか)の問いかけを、絶えずみずからに向けていた知の求道者とあれば、学ぼうとする者たちから守護神と見なされるのも自然だろう。
学生街カルティエ・ラタンのその名もエコール(学校)街、かつてのクリュニー僧院を背景に、ソルボンヌの大学に向いて腰をおろしたモンテーニュ像となれば、ひとつの象徴性を帯びるのもうなずける。
組まれて宙に浮いた右足の靴先が突き出ているとなれば、思索するモンテーニュの頭脳にあやかろうと、思わず触れてみたくもなる。
いつの頃からか試験を受ける学生たちはここを撫でるようになった、いくら真面目に学んできてもいざ試験となれば運が付きまとうとあれば、なおさら。
もともと大理石像だったのが、ブロンズの複製に置き換えられたのだそうだ。その方が丈夫だし、だいいち磨かれてツヤがでるという計らいだろうか。
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歌手のダリダと言えば、フランス語でシャンソン、イタリア語でカンツォーネと、ジャンルとことばを超えて活躍した。多くのヒット曲に恵まれ、持ち前の美貌と優雅さで日本でも人気を集めた。
60年代から70年代、とりわけアラン・ドロンとのデュエット「甘いささやき」は懐かしい。大人の男女のなんということのない恋の駆け引き、要するにじゃれ合いが洒落ていて、セリフと唄の組み合わせは新鮮だった。
モンマルトルの丘を愛しそこに暮らしたダリダだったが、四十代半ばで自死。歌姫を惜しむ隣人たちの思いが実って、胸像の造られる運びになったと聞く。
葡萄畑を背に「バラ色の家」の前からアブルヴォワール街を行くと、ジラルドン街との角、階段を後ろにした広場に像は立っている。
その様子は‥‥写真をご覧いただければ、説明するまでもないだろう。
モンマルトルをめぐる観光ツアーに、ダリダの思い出の組み込まれているコースがあっても不思議はない。たまたま見かけた20~30人のグループを引き連れ、説明しているガイドの言葉はイタリア語だった。
少しためらい、まぶしそうな笑顔を浮かべながらアイドルの胸に触れる年配のご婦人もいれば、ごく当たり前に手を置いて胸像と一緒に写真におさまる方がたもいる。旅の記念。ダリダの唄を聞いた過去のひとときが重なり合うのだろう。
これが美空ひばりか吉永小百合だったら。‥‥やはり考えにくい気がする、変質者と見なされ通報だってされかねない。すると「胸像には触れないでください」と注意書きが貼られ、エンドレスのアナウンスが流れはじめたりして‥‥。
そんなことを思いながら、陽射しを受けて温かくなっている胸にしっかりタッチしてきた。
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切実な願いをこめて撫でさすられる像という意味では、ペール・ラシェーズ墓園92区画に眠るヴィクトル・ノワールを掲げておきたい。
ぴかぴか光る下半身に注目。
22歳で殺されたジャーナリストが路上に横たわる像。どのような社会体制であっても、その末期には信じられぬような不祥事の連続することを、古今東西の歴史は物語る。ヴィクトル・ノワールの悲劇も、間違いなくそのうちのひとつだった。
ナポレオン3世の帝政に批判的な新聞「ラ・マルセイエーズ」の青年記者は、皇帝の従弟によって射殺される。ボナパルト一族のうちでも困り者の問題児ではあったらしい。しかし下手人の性格云々で論じられる水準ではない。
皇帝の一族として特権的な立場にあった者が、体制批判者をいきなり撃ち殺す。その事実そのものが、帝政統治の性格と行き詰まり、限界を端的に示していた。
青年ジャーナリストが兇弾に斃れたのは1870年1月、わずか8ヵ月のちナポレオン3世は退位を余儀なくされ、帝政も瓦解する。決して偶然ではないのだ。
不幸な死を遂げた若者には婚約者がいて、挙式を控えた直前この不条理に遭遇した。‥‥さぞ無念だっただろうという同情と共感が、やがて、子を欲しいとの願いを叶えてくれる男性的能力への夢想につながっていく‥‥。
‥‥この最後の「やがて」以降、自分でまとめながら正直なところ首をかしげる。展開に少し飛躍があるというか無理があるというか‥‥それでも現実の流れはこの通りなのだから‥‥。
いちばん戸惑っているのはヴィクトル・ノワールそのひとのような気もする。単純にこの写実的な像のもたらす威力と割り切ったほうがいいのだろうか。
いずれにせよ、手を焼いた墓園管理者が一時期柵を設け、猛烈な反対と抗議に遭って、まもなく柵は取り払われた。
願いの強さを示すために触れ合いをもっと効果的で直接的なものにしたい、そう思いつめ、下半身にまたがる積極的な者も出現したからだという説も耳にした。もちろん風聞、噂話の域を出ないものではある。