5月のパリは美しい。透明な陽射しは石の街をきらめかせ、花々は香り、深みを増す緑に喜びをおぼえる。果物屋の平台に苺やフランボワーズ、さくらんぼと赤い果実が並び、今年もコミューヌを想い起こす季節がやってきた。
1871年春に迎えた72日間の祝祭。そう呼ばれるにふさわしいパリ民衆の自治政府コミューヌの日々は、ティエール率いるフランス国政府との内戦の日々でもあった。
そもそもはドイツ帝国との戦争、普仏戦争をどうするかに端を発していた。
‥‥皇帝ナポレオン3世の引き起こした戦争の後始末とはいえ、アルザス、ロレーヌ地域の割譲はじめ屈辱きわまる「和平」を呑み、ドイツ帝国とまともに対峙しようとはしなかった統治者。その遣り口に怒りを溜め込んだ民衆。
ドイツ軍のパリ包囲に耐えてきた民衆は、本気で戦えばまだまだ戦えることを知っていた。統治する者が弱腰なのは、彼らが彼らの「持つもの」を守るため、彼らの利害のために他ならない。‥‥戦争のからくりを見抜いたのだ。
血の週間と呼ばれるコミューヌ最後の日々、政府(軍)は後ろめたさと憎しみを隠そうともしなかった。

5月28日はコミューヌ最後の日となった。最後まで残っていた大規模なバリケード、フォーブール・デュ・タンプル地区のフォンテーヌ・オ・ロワ街で戦ったあと、ウジェーヌ・ヴァルランは9区カデ街とラファイエット街の交叉点近くで政府軍に逮捕された。
壊された数々のバリケード、いまだそこここ煙の立ちのぼる街路にひしめく群衆のなかで目ざとく発見されたヴァルランは引っ立てられ、モンマルトルの丘の上、現在ではサクレクール大寺院の裏手にあたるシュヴァリエ・ドゥ・ラ・バール街へと連行される。
そこはコミューヌ発端の場所。ティエールの政府がヴェルサイユへ逃げ出し、コミューヌ樹立のきっかけとなった3月民衆蜂起、その起点となったここモンマルトルの丘の上で、将軍2名が民衆によって銃殺された。
無差別殺戮に及んだ血の週間の最終日、鎮圧されたパリへの見せしめとして、将軍2名の流された血の代償に、まさにその地で復讐の身代わりに据えられたのがヴァルランだった。
処刑の場に運ばれるまでに受けた暴力で、すでに傷だらけだったという。それでも彼は最後の最後まで毅然と、向けられた銃口を前に「共和国万歳、コミューヌ万歳」と叫んだ。
同じように共和国を名乗りながら心底では王党派だったとされるティエールと、彼を担ぎ出した人びとの、コミューヌ、民衆に対する憎しみ、憎しみの底にある恐怖が伝わってくるエピソードではある。
憎しみと恐怖の象徴的存在としてヴァルランの立ち現れたのも、歴史的なひとつの流れを暗示している。というのも数多くのコミューヌ指導者、ジャーナリストや弁護士、思想家、学者と肩を並べ、ひとりの労働者として自らの在りようを問いつづけてきた者だったからだ。
1839年生まれの彼は13歳でパリに出ると、製本業者の徒弟として働き始める。夜間学校に学び、製本に携わる労働者として相互扶助組合の結成にかかわり、インターナショナルのフランス支部に加入するなど、労働運動の活動家として頭角を現していく。
本格的な産業革命のただなかに生まれ成長したヴァルランは、王政の崩壊、都市の近代化を背景に、勃興する労働者民衆を体現するシンボルそのものだった。コミューヌのもっとも誠実なメンバーとして信頼を集め、象徴的な死を遂げたとき、彼は31歳でしかなかった。
72日間の祝祭。短くも濃密な時間のなかではさまざまな想いと試みが交叉する。ロンドンで目を凝らして事態の推移を見つめていたマルクスはじめ、コミューヌの持っていた問題意識、多様性、そして可能性に注目した思想家は数知れない。
想いと試みが未整理のまま混乱し、たとえ間違いだらけで傷つき挫折を余儀なくされても、その若々しさ、みずみずしさ、鋭敏な喚起力が色褪せることはない。
コミューヌはフランス革命から一世紀近くの紆余曲折を経た時代に投げかけられた、大きな疑問であり批評であり提言であり指針でもあった。ただそれが結晶することはなく、結実することもなかった。
当事者たちの思考がそれぞれ体系的に伝わってきているとも言えない。ヴァルランにしても例外ではない。討論内容、演説内容、ときどきに表明した見解、それらが断片的に伝わっていても、自身の体験をまとめ、練り上げてきた想いを記すだけの時間を彼は持たなかった。
悲劇的で英雄的な最期は、仲間に愛された彼の人気を揺るぎないものにするに充分なものであるとしても。