サント・カトリーヌと出会う:モントロン緑地

フランス革命で斬首、死刑を執行する役目を担い「国王の首を刎ねた男」として名を残すことになったサンソン。ギロチンと共に数奇な運命をたどった男とその一家の暮らした場所と聞いて出向いたのが、モントロン緑地だった。

当時は市街地を外れサンソン家の農園が広がっていただろうと思われるあたりも、今では9区の賑やかな商業地域に隣接する街区で、当時を想像させる痕跡はなに一つ残されていない。

館のあったモントロン緑地は19世紀第二帝政期に、ラファイエット街と共に整備されたという。交通量の多いラファイエット街に面した小公園は、パリのどこででも見掛ける種類のものだ。

子どもを遊ばせベンチでくつろぐ、地元の人びとの憩いの場ではあっても、わざわざ訪れるほどの物好きはまずいないだろう。そう自信をもって断言できるほど変哲のない、通り過ぎてしまうだけの光景だ。

それでも訪れる物好きの目に映るのは中央の彫像、若い女性たちの群像。‥‥神話に登場するニンフたちとか特に著名な人物というわけではなく、ベルエポックの時代の衣装に身を包んだ娘たち、その笑いさざめきが聞こえてきそうな一群だ。

台座には「サント・カトリーヌ1902」とあり、さらに「パリの女工へ」と彫り込まれている。20世紀初頭のパリで働く女性に捧げられた、彼女たちを表した像ということになる。

このあたりから南の2区東部にかけての街区には、帽子製作や各種縫製はじめ服飾関係の作業施設が多く集まっていたことを考えると、ファッションの都パリを支えたお針子や女工たちなのだろう。

それではサント・カトリーヌ、聖カトリーヌとは何者か。カトリーヌなどとフランス語の読みしているから分かりにくいかもしれない、聖カタリナとイタリア語風に表記されていれば、ああ、という方も多いだろう。

カラヴァッジョの描いた聖カタリナ(16世紀)

紀元3世紀から4世紀頃、エジプトのアレクサンドリアの貴族の家に生まれたカタリナは当時最高の教育を受けた才媛で、キリスト教への信仰篤く、時のローマ皇帝の前で、異教50人の賢者を論破した。

その賢さ、颯爽とした美しさに心を奪われた皇帝は彼女に言い寄るが、イエスこそ自分にふさわしい霊的な伴侶と想い見なす彼女には、地上の権力者などなんの魅力もない。遂にはその怒りを買って殉教したのだという。

こういうエピソードはカトリック教徒の好みに合うものらしい。数多い聖人たちのなかでもひときわ人気の高いひとりで、彼女をテーマに制作された絵画や彫像は教会などでしばしば見かける。

文字の読めない人びとや子どもたちへの配慮でもあったのだろう、神話や宗教上の人物像は、身につけたり近くに置いているもので誰なのか分かるようになっているケースが多い。お陰で門外漢でも判別できる。

彼女の場合は書籍(知識と才知を象徴するのだろう)、釘打ちされた車輪(これは皇帝から受けることになっていた拷問器具で、彼女の手が触れるやひとりでに壊れたという)で示されている。

彼女にちなむ聖カトリーヌの祝日は毎年11月25日、時代がくだり中世になると未婚のまま25歳を迎えた女性が、良縁を聖カトリーヌに願うという風習が生まれていったという。

結婚観、社会観、宗教観は時代と共に変わるものだから、中世以来のこの伝統に現代を生きる者たちが違和感を覚えるのも当然。そのせいか現在のパリでは耳にすることのない祭りだが、20世紀の前半にはかなりの規模で行われていたのだろう。

何はともあれ、普段は作るばかりで自分で着る機会など滅多にない「晴れ着」を身にする喜びが伝わってくるようだ。

1902年のパリで働き25歳を迎えた女性たち。

腕のいい働き者もいれば器量よしもいただろう。お喋り好き、世話好き、皮肉屋、のんびり屋、勉強家、笑い上戸にさびしがり、新聞の連載小説に夢中なのもダンスホールで踊るのが何よりの楽しみというのも。

パリの下町育ちもいれば郊外の子沢山な農家の生まれもいただろう。パリに出れば何か働き口はある、どうにか食べていける。さまざまな地方から流れ集まってきた者も多いに違いない。

こののち40代で第一次大戦を体験し、第二次大戦の終わった1945年を68歳で迎えた年代だ。

‥‥と見直すと、子ども時代に見かけたおばあさん達の年代にあたる。たばこ屋のおばあさんは店番しながらこっくりこっくり居眠りしていた。同級生の家の「おおばあちゃん」は小さくしなびていたけれど、和裁の名人だった。

洋の東西は違おうと、急に身近な存在に思えてくる。

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