サマリテーヌ百貨店を作った夫婦

シテ島西端に架かるポン・ヌフは欄干のところどころ、橋脚の上が半円形のバルコニーのように迫り出している。セーヌの川面を見下ろし、川風を受けるに恰好の見晴らし台だ。

かつてポン・ヌフがひとの行き交う大道として人波の隘れていた時代、この見晴らし台は露天商の店を出すスペースとして利用されていたという。

1860年代末期というからナポレオン3世の第二帝政時代、現在のパリとほぼ同様のパリが出来あがった頃。30歳に近く、もう若いとばかりは言えないエルネスト・コニャックもここに露店を出していた。

いつの日にかパリの真ん中、つまりこのあたりに天候に左右されぬ店舗を構え、みずからの才覚で思い切り商売をしてみたい。10代のはじめに孤児となり、幾度となく挫折を経験してきた者の夢だっただろう。

野心と情熱に満ちた行商人に運の巡ってくるのは、生涯の同志となるマリルイーズ・ジェイと結婚した頃から。同年代で同じように15歳でパリに出てきた彼女も働いて生き抜かなくてはならない、よく似た境遇にあった。

特筆すべきは、勤め口がブシコー夫妻の創設したデパート、かのボン・マルシェだったこと。そして何より勤勉で優秀であったこと。

努力と能力次第で昇給し責任ある地位につける、当時としては画期的な労務政策を採っていた職場で、マリルイーズは衣料品の販売係に抜擢される。デパートという商業形態を「発明」したブシコー夫妻の、いわば直弟子が彼女だった。

1870年友人からの借金を元手に、ポン・ヌフの袂にわずか48平米の広さでふたりは店を始める。頃あたかも、プロシアとの戦争で帝政は倒れコミューヌの内戦を経て、パリは混乱と破壊のさなかにあった。

なにしろ市庁舎、テュイルリー宮など焼かれて廃墟と化していたくらいだから、まちの中央部ポン・ヌフ周辺も焼け跡だらけという有り様。戦後のどさくさは、ここで新たに商売を始めようと思う者にとって絶好のタイミングでもあった。

‥‥やがて訪れる復興、回復期に、ボン・マルシェに学んだ新商業方式、新経営路線の引かれた夫妻の事業は、大きく膨らんでいくことになる。

定価販売、商品に触れ試着可能、返品もオーケー、現在では常識になっている販売方式は、産業革命の過程で生み出された勤労大衆、都市生活者、その大群のニーズに適合したものだった。

従業員の能力、意欲を引き出す労務政策、福利厚生という面でも、コニャック夫妻の手になる百貨店サマリテーヌは、近代的業務、近代型経営の花ひらくさまを体現していた。

産業革命を背景に、戦争と体制の転換をはじめとする混乱の時代。有力な後ろ盾があったわけでもコネクションがあったわけでもなく、十代で故郷を出ると奔流のように大都市へ流れこんできた人びとのうちにあって、無一文からスタートした夫妻は時代の子と呼ぶにふさわしい。

そんな彼らの内面世界を追って、マレ地区へ足を伸ばしてみよう。入り組んだ小径のひとつエルゼヴィール街、16世紀に建てられたドノン館が現在では夫妻のコレクションを集めたコニャック・ジェイ美術館になっているからだ。

コレクションの中心は18世紀の美術・工芸品、フランス革命前のロココと呼ばれる時代のものだ。優雅な曲線を描き、精巧な細工のほどこされた家具や調度品、時計、小物の類から、屈託のない表情を浮かべた男女の描かれた絵画まで。

神話や聖書をテーマにした荘重さを逃れ、現世的な宮廷生活を軽やかに甘く描き出し、口当たりのいい情景。ブルボン王朝時代に貴族たちの織りなした夢、クッキーの缶の蓋にでも写されるにふさわしい世界だ。

めまぐるしい変動の19世紀末を生き抜く、闘いの日々。庶民の代表のようなふたりがヴェルサイユ、宮廷生活の残り香のような品々を集めていた‥‥。ひとに親しみを覚えるのは、そういう心理の襞に接したときだ。

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