17区モンソー公園北側で、ヴィリエ大通りとマルゼルブ大通りは交叉する。お屋敷街に囲まれた長方形の広場がカトルー将軍広場だ。
ふたつの大通りは2本の対角線として長方形中央で交叉するから、広場は四つの三角形に区切られ、それぞれが主人公を擁する緑地を形作っている。
南の緑地の主人公はベル・エポックの伝説的な女優、サラ・ベルナール。この街区に居を構えた彼女の像があり、残り三つの緑地はデュマ家三代にかかわっている。「カトルー将軍広場」より「デュマのいる広場」と言われた方が通りのいいのも頷ける。
広げた原稿と羽根ペンを手に、アレクサンドル・デュマは西の緑地でどっかり椅子に腰をおろしている。「三銃士」「モンテ・クリスト伯」などでお馴染みの文豪の、陽気で豪放磊落な性格が伝わってくるような堂々たる像だ。
美食家にして好色家、桁外れのタフネスで夜ごと大盤振る舞いの宴会騒ぎ、新聞連載小説で無類のストーリーテラーぶりを発揮して読者を沸かせた19世紀パリの巨人は、パンテオンに眠る今も人びとに愛されつづけている。
偉大な父と向き合うように、東の緑地にはアレクサンドル・デュマ・フィスの像。「椿姫」の作者として知られるものの、父の像に比べると小振りで地味な感は否めない。名前からして父の名の後にフィス(息子)と付け加えられているだけ、というのも‥‥。
わしの子はそこここ500人はいるだろう、と豪語したと伝えられる父デュマの発言を、いくらなんでも額面通りには受けとれぬとしても、何人いたか分からぬ「私生児」のひとりとして育ったのが彼だった。
わしの息子にしては妙に道学者のようで面白みに欠ける、と言われながらよく付き合って、晩年借金で首がまわらなくなり意気消沈した父を支えたのはこの息子だったという。
そして北の緑地。ここは、アレクサンドル・デュマの父トマ=アレクサンドル・デュマに捧げられたスペースだ。彼はカリブ海のフランス植民地、貴族だった農場主と黒人奴隷女性の間に生まれた。
生まれながらに劇的な人生を約束されたとでもいうように、混血の彼にはどこかひとを惹きつけずにはおかない魅力があったと伝わる。生命力あふれる青年は、軍人への道を選ぶ。
自らの力のみで運命を切り拓いていこうとするなら、当時それがもっともふさわしい選択だった。また、そうするだけの才覚が彼にはあった。時あたかもフランス革命の時代。国王軍から革命軍へと転じ、激動の時代を数々の武勲によって一兵卒から将軍にまで昇り詰める。
ただ‥‥能力と努力だけではどうにもならぬこともある。飛ぶ鳥を落とす勢いのナポレオンとソリの合わぬまま、解任されるのだ。
革命は奴隷制を廃止したが、革命の申し子を自任するナポレオンはこれを復活させた。デュマ将軍は奴隷を母とする子だった。
ナポレオンに背いた男。しばしばこう呼ばれるのは、デュマ将軍にとって大いなる勲章かもしれない。
広場に勢揃いしていたデュマ家三代の男たち。しかし1942年ナチス・ドイツにパリが占領されると、デュマ将軍像はパリの他の多くのブロンズ像と共に撤収され溶かされてしまった。
今世紀2009年になってかつてのデュマ将軍像とは別の形で、ここにモニュメントが復活する。
‥‥奴隷制を象徴する枷〔かせ〕と鉄鎖。デュマ将軍の存在は、こうして奴隷制の闇を暴く光となった。毎年5月11日、ここで奴隷貿易の犠牲者追悼のセレモニーが行われる。