没後100年にあたる今年(2022年)は、プルーストをめぐるさまざまな催しが企画されている。たとえばカルナヴァレで開かれた特別展は、生まれ暮らし創作に打ち込んだ「プルーストのパリ」にスポットライトをあてたものだった。
ベル・エポックから第一次大戦を挟む時代に、彼の暮らしたパリ。「作品世界」と照応する光景を夢想しながら、現在の街をたどってみる。
マドレーヌ広場の巨大な寺院正面近く、マルゼルブ大通り9番地。1871年生まれのプルーストは2歳から20代の終わり1900年まで、家族と共にここで暮らした。
父は医学者、医療行政の中枢に位置した「要人」、母は裕福なユダヤ人株式仲買人の娘。パリの上流ブルジョワ家庭に生まれ、物心つく頃からコーマルタン街にあるリセ、パリ大学での学生時代を過ごしたことになる。
年譜を見ると9歳ではじめて小児喘息の発作に襲われたとあり、以後呼吸器系の疾患は終生彼を悩ませることになった。その一方で社交界に出入りし、同性愛者であることを自覚し、ドレフュス事件以来のユダヤ人問題と直面した時代でもある。
のちに描かれるプルーストの作品世界の材料は、ほぼこの時代に出揃ったと言えるかもしれない。
1900年から1906年に暮らしたのはクールセル街45番地。メトロのクールセルからクールセル街のゆるやかな傾斜を下るように進む。風格ある建物の連らなるお屋敷街の、モンソー街との交叉点をわたった右側。
このどっしりした建物2階(日本風には3階)部分に彼と家族は暮らした。外側から見ただけでも、通りに張り出したバルコンは豊かさの象徴と映るが、ここでの時代はプルーストにとって家族との別れを意味してもいた。
弟ロベールが結婚して家庭を離れ、父と母は相次いで他界する。ひとりになった彼が広過ぎる家から転居したのはオスマン大通り102番地で、メトロ、サン・トーギュスタンの駅を上ったすぐ上に位置している。
外界の物音を遮断させるため居室を「コルク張り」にしたことで知られる、プルーストのアパルトマンはここで、第一次大戦後の1919年に転居するまで執筆を中心とした生活が営まれる。
‥‥プルーストの暮らした3ヵ所はいずれもパリ8区の中央部で、マルゼルブ大通り、オスマン大通りを歩けばいくらも離れていない。引っ越したと言っても同一町内、せいぜい隣町程度、そこで彼の暮らしは成り立っていた。
パリ8区、すなわち東北にクリシー広場、東南コンコルド橋、西南アルマ橋、西北テルヌ広場、大雑把に言ってこの4点を結ぶ線で切り取られた四角形は、オスマン大通り、シャンゼリゼ大通りが中央を貫き、大統領官邸であるエリゼ宮や内務省のある国家の中枢をなす。
北にモンソー公園、西に凱旋門、エトワール広場、東にサン・ラザール駅、マドレーヌ広場、コンコルド広場、南にプティ・パレ、グラン・パレ、アレクサンドル3世橋にセーヌの流れと並べると、ランドマークの集積地といった感がある。
19世紀には二つの社交界、セーヌを挟んでフォーブール・サンジェルマンの貴族たちの街区、東隣にはショセ・ダンタンのブルジョワたちの街区、両者の中央に位置する格好になっていた。
オスマンの名の冠された大通りがあるように、ナポレオン3世統治下の第二帝政時代を想起させるという点では、パリ全20区中この8区が随一という気がする。重厚な外観、ととのった景観、それにもかかわらずどこか上っ調子な内面、その組み合わせという意味で。
プルーストはこういう街に育ち、暮らした。それもとびきり裕福なブルジョワ家庭に、なに不自由ない「高等遊民」として。このことは押さえておく必要がある。
それが弱点であり欠陥である、という意味ではない。パンひとかけらに困ったかどうか、と作品の織りなす豊かさとは無縁であることは言うまでもない。ただ虚構の自伝とされる「失われた時を求めて」、その作品世界を特徴づけはする、規定はする。これも確かだ。
記念年だから思い出し取り上げようという思考パターンには、正直なところ馴染めぬ想いもある。しかし今回は、なぜか自然に受けとめていた。70歳の誕生日を迎えたところで、プルーストの方から立ち現れてきたと。
この自然さを大切にしたい。石畳に反射する夕陽の眩しさに目を細めながら、鈴木道彦訳の「失われた時を求めて」を久々に手にしようという気になっている。