グランド・ショミエールで働いた経験のあるフランソワ・ビュリエはモンパルナス大通りと天文台大通りの角に1000本のリラ(ライラック)を植えるとクロズリー・デ・リラと名付け、新たなバルを開業した。1847年のことだった。
知名度の高いバルのすぐ近くで新規開業を考えたのは、立地面での利点を熟知していたからであろうし、自分なら新時代のニーズに応えたものを作り出せるとの思いがあったからでもあるだろう。産業革命が進み、市民意識も変わりつつあった。
アルハンブラ宮を模した北アフリカ風、イスラム風内装をほどこすあたりは、まさに計算通り。当時のオリエンタル趣味を刺激し、話題をさらう。ビリヤード、アーチェリー、射撃などの施設もととのい、新時代の覇者となる。
テーマパークの前身とでも言えそうだが、あくまで本業はバル。広い庭では連日ダンスパーティーが開かれた。19世紀半ばから20世紀第一次大戦後まで、世紀末からベル・エポックの時代を代表する「社交場」のひとつだった。
ここはリュクサンブール宮の真南で、旧天文台との中間点にあたり、かつてナポレオンをして「勇者の中の勇者」と言わしめたネー将軍が銃殺された地でもある。
元帥としてたてた数々の軍功のうちでも有名なのは、ロシア遠征で敗北したナポレオン軍の長く苦しい退却戦で、後衛の指揮を取ったこと。負け戦さの撤退戦こそ軍人の真価が問われる。そのしんがりを務め、兵卒までをもまとめあげた統率力と胆力は並々ならぬものがあった。
ナポレオン失脚後、王政復古となって、恨みを買っていたルイ18世のもと、銃殺されたのが1815年。その後紆余曲折を経て王制が最終的に倒され、ナポレオンの甥、3世が皇帝になるとネー将軍を顕彰する像が建てられた。
国民的人気の対象ともなっていたネー将軍の「復活」と隣り合わせになったバル。これもまた、このバルを印象づける、格好の宣伝材料になったことだろう。
グランド・ショミエールの常連客たちは、ロマン主義の洗礼を受けた世代が中心だったのに対し、こちらの中心はその後の世代ということになる。文学者たちが多く集まったことから、文学カフェとしての性格を併せ持っていたようだ。
ボードレールに始まってヴェルレーヌ、ランボー、そして象徴派の詩人たち。こういう詩人たちとお喋りしたりゲームに興じたりする中には、ロシア革命のヒーロー、レーニンやトロツキーの姿もあったという。
時代は少し前後するけれどオスカー・ワイルドやヘミングウェイの名も常連のなかに見つけると、このバルは当時のモンパルナスの街、その特異な輝きをそのまま体現しているようにも思える。
とりわけ大戦間のモンパルナスは、エコール・ド・パリと呼ばれることになる一連の芸術家たちが世界中から集まってきた。才能と才能がぶつかり合い、はじけ、花開いた「特別な街」だったのだ。ヴァヴァンの交叉点から少し離れたバルは、「特別な街」の東の端に位置していた。
モンパルナス大通りがポール・ロワイヤル大通りと名をかえるところで立ち止まり、並木と噴水の連なる緑地のずっと奥に見えるリュクサンブール宮の方を眺めてみる。
背中に旧天文台の存在を強く意識しているのは、北に向けたこの視線がかつての旧子午線に重なるからだ。グリニッジ子午線に統合されるまでのパリ天文台零度の子午線、それを身体感覚として味わう。
旧子午線に接するようにネー将軍の記念像が立ち、その横手に植え込が見える。この植え込みが現在のクロズリー・デ・リラ。ナイトクラブが隆盛してくる時代にバルは閉鎖され、その後身であるレストランだ。
前を通り過ぎるだけで敷居の高い気がして敬遠してきたけれど、今度なにかの記念日にでも使ってみようか。それも悪くないなと考える。