モンパルナス、ふたつのバル(1)

20世紀初頭から半世紀の間、特別な輝きを放ったモンパルナス。この街はどうして文化の最尖端、発信地として選び取られることになったのだろう。そもそもどのような場所として在ったのだろう。

‥‥ヒントになりそうなのは、ふたつのバル、グランド・ショミエールとクロズリー・デ・リラだ。バルはなくなっても、その名はどちらも今に引き継がれている。

バルとは舞踏会、舞踏会場、ダンスパーティーのこと。シンデレラのお伽噺でも明らかなように、宮廷貴族から庶民まで、都会であろうと村里であろうとダンス、舞踏会はヨーロッパ文化のなかで大きな位置を占めてきた。ダンスそのものの楽しみにとどまらず社交、娯楽、なにより出会いの場として。

そんな文化を背景に、バルという言葉には王侯貴族や大ブルジョワが主催するものではない、大衆的なダンス会場というニュアンスが込められているようだ。

ヴァヴァンの交叉点すぐ近く、モンパルナス大通りを少し東に進んだ右手120番地bisに、バル「グランド・ショミエール」はここにあったと記された「パリの歴史」碑が立っている。

オープンしたのは1788年というから大革命前夜、19世紀半ば1850年代に閉じられるまで60年以上の歳月、この地で営業されていた。現在のラスパイユ大通りとの角112番地から136番地までを占める広さだったという。

ダンス会場と聞くと現代のディスコのような施設を浮かべがちだが、林に囲まれた屋外の、盆踊り会場になる鎮守の杜とか小公園を考えた方が近いかもしれない。実際、ここには築山が作られ、そこから滑り降りる遊興施設まであった。

これだけの広い土地となれば都心での確保は難かしい、といって気軽に出向ける距離にある必要がある。その点当時、ここはぎりぎりとはいえパリ市内だったのだ。

1860年の市域拡大まで「徴税請負人の壁」と呼ばれる城壁(現在メトロの2号線と6号線の通るブルヴァールにあたる)が、パリ市を囲っていた。

軍事的な色彩は失って、もっぱら入市税を徴収するのが目的の代物だったから、徴税事務所のある市門のすぐ外側に課税前の物資が集まる。市内より安いワインを供すれば、ここに「消費」する人びとが現われ繁華街が生まれる。

そんなモンパルナスの、市門に近いバルとして登場したのがここだった。さらに特筆されねばならないのは、リュクサンブール庭園の南側に位置してカルティエ・ラタンに近かったことだ。

さまざまな階層のさまざまな職業の客のうち、カルティエ・ラタンに学び、地方から上京してこのあたりに住み着いた学生たちの姿が真っ先にあがるのはそのせいだ。

バルのあった地から見た、ヴァヴァンの交叉点

地理的立地と時代的背景を結びつけ、ここに出入りしていた人びとの像を描くと、年代としてはフランス革命からナポレオンの時代を体験した年代‥‥となれば、なんとなくこのバルの性格が浮かび上がってくるようではないか。

常連だった者として「パリの歴史」碑にはジュール・ファーヴル、エミール・ド・ジラルダン、バルベス、ティエール4名が並列されている。

とにもかくにもビスマルクと渡り合った政治家、商業新聞のビジネスモデルを作りあげた新聞王、オランダで客死した伝説的な革命家、変転につぐ変転を泳ぎ抜き第三共和制の大統領となった者。

毀誉褒貶はあるとして、いずれも19世紀パリという破天荒な舞台を演じ切った巨人たちであることは間違いない。

彼らが本格的な活動を始める以前、若い学生として出入りしていたのがこのバルだった。それはロマン主義と呼ばれる時代、バルザックやユゴー、デュマの小説、作品世界でもある。

カルティエ・ラタンに学ぶ学生とお針子が出会い、恋に落ちる。物語はそこから始まる。いかにステレオタイプと言われようと、間違いなくそのような場としてここはあった。

ロマン主義世代の聖地、そう呼ぶにふさわしいこのバルは、王制の完全なる終焉を看取るかのように下火になっていく。近くにクロズリー・デ・リラがオープンすると客を奪われ、閉鎖を余儀なくされるにいたった。

バルの地からモンパルナス大通りを渡ったところに開くグランド・ショミエール街が、今でもかつてのバルの所在を指し示している。現在のヴァヴァン交叉点北側からセーヴル・バビロン方面に伸びるラスパイユ大通りは当時開通していなかったから、都心部からバルに向かう者の多くはこの道を往来したことになる。

バルの名を残したこの道に、この道の名を冠した美術学校「アカデミー・ド・ラ・グランド・ショミエール」の開校したのは1904年のこと。日本人の多くもこの美術学校で学んだ。

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グランド・ショミエールで働いた経験のあるフランソワ・ビュリエはモンパルナス大通りと天文台大通りの角に1000本のリラ(ライラック)を植えるとクロズリー・デ・リラと名付け、新たなバルを開業した。1847年のことだった。 知 […]