ブシコー夫人という生き方

東京や大阪はじめ大都市の百貨店、デパートを見慣れた目には小ぶりでいささか古めかしいものと映る。それでもここが世界で最初のデパートだと聞けば、吹き抜けになったホールや階段はあらたな輝きを放ち始める。

パリ左岸の商業地セーヴル・バビロンに、ボン・マルシェが生まれ形をととのえていくのは1850~60年代、近代都市化の波が押し寄せた第二帝政下のことだった。

地方の商人家庭に生まれたアリスティッド・ブシコーは、パリに出て修業を積み、自分の店を開くと蓄えてきた知恵とアイデアのすべてを投入し、小売業の新機軸を打ち出していく。最大の同志は妻のマルグリットだった。

石造りの閉鎖的な空間から、鉄材と硝子の組み合わせが軽やかに感じられる空間へ。明るく開放感のある店内。ここで従来の「買い出し」は「買い物」へと性格を変える。

必要なときに必要なものを必要な分だけ手に入れる。入るだけで気後れしてしまう専門業者の店は、価格が明示されているわけではないから愛想のない店員と価格を交渉、なんとか折り合って購入する。

おもしろくもなんともない「買い出し」が、入店自由、値札のついた定価販売、それも豊富な品数が揃い、手に取って比べられるとあれば、おのずと別のものになってくる。必要に迫られた「買い出し」から心弾む「買い物」への進化である。

豊富な商品がショウウィンドウや多くの棚に並び、さながら展覧会や博覧会のように魅力的に陳列され、季節によってバーゲンまで実施される。どうしたって購買欲は刺激される。必要以外のものにだってついつい手は伸び、財布の紐は緩んでくる。

新しい時代の消費のスタイル。このような仕掛けとしてデパートは誕生した。

母はお針子、父親は不明という「レ・ミゼラブル」のコゼットさながらの環境に育ったマルグリットは、ブルゴーニュの片田舎で物心ついて以来雑仕事に携わり、ろくな教育も受けられぬまま12歳でパリへ送られた。

洗濯屋、食料品店と働きながら読み書きから学び、持ち前の明るさと聡明さで運命を切り開いていく。アリスティッドと出会い結ばれ、彼の革新的な経営方針をよく理解し支える良き伴侶となり、頼もしい共同経営者へ成長する。

ボン・マルシェの成功は商業の革新的方針によるだけでなく、画期的な従業員対策、そこに働く者たちの処遇と給与システムについて考案し、手厚い福利厚生に取り組んだせいでもあった。

働く者の労働環境をととのえ待遇を改善すれば、自然に上質な働き手が集まり、成績に応じて責任を負い昇給するとあれば労働意欲だって増大する。働く者の心理をみずからの体験として熟知していたからこそ、労働の近代化を先取りすることになる。

新規事業のアイディアと労働力のアップ、これが二つの大きな動輪となった。アリスティッドの才覚と、マルグリットの能力と。歯車は見事に噛み合った。

セーヴル・バビロンの交差点は、ボン・マルシェ正面からラスパイユ大通りに至るまで、気持ちのいい緑地が広がっている。その名も夫妻にちなんだブシコー小公園。ここではマルグリットの社会福祉家としての貢献を讃える彫像を見ることができる。

アリスティッドに先立たれ、ひとり息子も病歿すると、マルグリットはボン・マルシェを合資会社システムに切り換え、株式を多くの従業員に譲渡、分割する。そして社会福祉家、慈善事業家としての色彩を強めていく。

メトロ8号線にブシコー、彼女の名に由来する駅がある。ここには彼女の遺言によって建てられた病院があった。コンヴァンシオン街78番地、現在は小学校として利用されている煉瓦造りの建物がそれで、裏にまわり込むとマルグリット・ブシコー庭園がある。

かつての病院と別院、病棟に囲まれた、患者たちの憩いの場だったのだろう。さして広くはないけれど、マロニエの木陰のベンチに腰を下ろすとゆったり落ち着きを覚える。

人通りの多い都心の公園もいいけれど、住宅街にある「普段づかい」とでも表現したくなる公園もいい。ここにはマルグリットの胸像がかつての病院、今は柵に保護された小学校の方を向いて立っている。

エミール・ゾラの小説「ボヌール・デ・ダム百貨店」は、ボン・マルシェの誕生をモデルにしているという。近代的商業主義の生まれた時代。若々しく夢の語られた世界。ブシコー夫人という生き方があった。

悲劇的な結末を迎えることの多いゾラの小説群にあって、珍しくハッピーエンドを迎えるのも印象に残る。