1871年5月25日:ヴォルテール大通りで

ヴォルテール大通りからレピュブリック広場へ

産声〔うぶごえ〕をあげた、そもそもその日からコミューヌに危うさはつきまとっていた。

ヴェルサイユに逃げ出したティエール政府は、ただちにパリ市民への反撃に着手する。ビスマルクと交渉を重ね、プロシア軍の捕虜になっていたマクマオン元帥はじめ正規軍大部隊を取り戻すのが4月上旬。この時点ですでに兵力的には圧倒的な優位に立っていた。

じわじわと城壁外側の拠点を手中に収めた政府軍は1871年5月21日日曜日、プロシア軍の包囲するパリへ、守りの手薄な南西部サン・クルー門から市内に入り込む。

満を持して攻め込んできたプロフェッショナルの軍勢とあっては、いかにパリの「闘う民衆」であっても素人志願兵の域を出ない。歯が立つはずもない。しかも政府軍は憎悪と復讐心に燃えていた。妥協も和解も交渉の余地はない、徹底的につぶし、封じ込め、二度と立ち上がれないようにする。これだった。

初夏の陽光に隘れる美しい季節は、28日に最後の抵抗の銃砲が撃ち熄〔や〕むまで「血の週間」と呼ばれる一週間となった。

随所に築かれたバリケードを撃ち破ると、攻撃の手をゆるめることなく老若男女問わず無差別に殺戮し、南西部から中央部へ、さらに「叛徒」を北東部へと追い詰めていく。

ナポレオン3世の居所だったテュイルリー宮も、コミューヌの拠点だった市庁舎も燃え上がって廃墟となり、ルーヴル宮やパレ・ロワイヤルの一部も焼けた。

市庁舎を放棄して移った東部の11区区役所、コミューヌ政府本拠地から、5月25日正装に身を固めた老紳士が出てくると、50人ほどの同志と共にヴォルテール大通りをシャトー・ドー広場(現在のレピュブリック広場)に向かって歩き始めた。

雨のように降り注ぐ砲弾、霞みがちな視界のなか、シルクハット、フロックコート、黒いズボンに赤い飾り帯を身につけた老紳士は武器も持たず、杖を突いていた。

道には戦いに命を落とした同志が横たわり、共に歩いていた者の多くも砲弾を受けて倒れた。傷を負ってくずおれた友人の手を握り目を見交わすと、紳士は落下した砲弾の煙に包まれながら再び歩き出す。

シャルル・ドレクリューズ。1809年生まれの61歳。ナポレオンの時代に生まれブルジョワの子として育ち教育を受けた彼は、ジャーナリストして社会運動に身を投ずる。

王政、帝政に異を唱えて虐げられた民衆の側に立ち、亡命、流刑、入獄を経験したジャコバン主義者。と聞けば、原理原則に凝り固まった筋金入りの革命家像を描きがちだが、穏やかで私心のない人格者として慕われていたという。

持病が悪化し、前面に立って戦うのは無理だと固辞したにもかかわらず、いつしか中枢に位置していた。いくつかのグループはあっても統合された組織を持つにはいたらなかったコミューヌにとって、どうしても必要なリーダーだったのだろう。

すでに左岸全域、右岸も中央部までヴェルサイユ政府軍の手に落ち、シャトー・ドー広場とバスティーユを結ぶ線上で戦闘の行われている状況だった。この日、姉に向けて最後の別れの手紙を書くと、仲間を従え戦いの最前線に向けて歩き始めたのだ。

初夏の陽は広場の向こうに沈もうとしていた。沈む陽を目指すかのように振り返ることもなくドレクリューズは歩いていた。道幅の広い大通りを、時折砲弾のかすめ落ちるがらんとした空間を、ただひとり行くとでもいうように。

ドレクリューズ、ペール・ラシェーズの墓所

大通りが広場に出るところに築かれたバリケードに達すると、積み上げられた舗石をよじ登る。白い顎髭で縁取られた厳かな顔つきを仲間の方に向けた次の瞬間、彼の姿は消えた。銃弾を受け、広場側に落ちたのだった。‥‥こうして夜は降ってきた。

28日ベルヴィルで最後の抵抗の火は消え、ティエール、マクマオンは「秩序は回復された」と宣言する。政府と共にヴェルサイユから立ち戻った「品の良い人びと」は街路に転がった民衆の死体を嘲り、靴先でもてあそび、日傘でつつき、笑い興じた。

コミューヌ72日間の祝祭の終わり。「血の週間」にパリで果てた命は、かのフランス革命10年間のフランス全国での死者数より多かったという。

大佛次郎の大著「パリ燃ゆ」は、ドレクリューズについて書かれた章から始まる。著者の深い共感の伝わってくるものとして。

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