1871年4月某日:市庁舎前にて

パリ市庁舎を仰ぐとき、パリという都会〔まち〕が歴史のうちに負った役割の重さを感じる。

エティエンヌ・マルセルの時代から第二次大戦、現在に及ぶまで、パリはいつでも何者であるかを問われてきた。何者であろうとしているかを問われてきた。そしてそれを指し示す主要な場がここだった。

150年前、帝政の瓦解からコミューヌにいたる展開にあっても、パリが主役である限りこの場は舞台の中心を宿命づけられていた。

1870年9月4日、皇帝ナポレオン3世がプロシアの捕虜となったとき、民衆に向け帝政の終焉と共和制の宣言が発せられたのはここだった。プロシアと本気で戦わぬ政府に抗議する民衆が集まり、10月31日にはあわや政変かという場面もここだった。

翌年1871年3月18日の民衆蜂起で、ティエールの政府がパリからヴェルサイユへ逃亡すると、民衆が自然に集まって来たのも当然ここだった。

重く垂れこめていた雲が思いがけず吹き払われ、いきなり突き抜けた青空の広がりのような政治的空白に、国民軍中央委はコミューヌ、パリ自治議会の選挙を呼びかける。あまたの妨害を撥ねのけ選挙を実施、パリ民衆による自治政府コミューヌの成立を宣言。

それが3月28日、もちろんここ市庁舎で。9月以来依然としてプロシア軍に包囲されたままながら、政府を追い払った民衆が圧政の鎖を断ち切り、束の間とはいえ市庁舎の主〔あるじ〕となった瞬間だった。

コミューヌ成立宣言の日に

あらためて思う。‥‥パリ・コミューヌとは何だったのだろう。

巨大にして雄大な祭り。こう断言するところから論を進めたのはアンリ・ルフェーブルだ。72日間の祝祭空間。この提起の意味する全体を摑めなくとも、この断言は魅力的だ。苔むした歴史学的用語では見失われがちな民衆の熱狂、空気の熱さのようなものが伝わってくるではないか。

しょせん自然発生的な民衆蜂起の延長でしかなかった。そういう冷ややかな見方もあれば、コミューヌはそもそもパリ市民を代表していたのかという立場に立つ見解もある。

確かな目標や目的を持ち寄ることも練り上げる間もなく、突然開けた空間で祭りは始まり、あとはただただ陶酔と熱狂のまま‥‥口角泡を飛ばし、抱きしめ合い、戦い、果てていった。

しかし同時代を生きたカール・マルクスが来たるべき「労働者国家の原型」と評したコミューヌのパリでは、かつてないほど豊かな問いかけのなされたことをいくら強調しても強調し過ぎることはない。

思いつくまま挙げても、共和政体の徹底と行政の民主化、政教分離、無償の義務教育、労働環境の見直し、社会保障、コミューヌ(地方自治体)と中央政府の関係‥‥。革命の子たちと呼ぶにふさわしい彼らの問いかけは、男女の性差を超えて発せられ、外国人にも「市民」感覚は開かれ共有されていた。

現在にいたる諸問題は、ここでまとめられ提起されたと言って過言ではないと思えるほどだ。たとえ軍事的に新興プロシア=ドイツ帝国に敗れようと、市民の問題意識は時代に先んじるものとして突出していた。

混沌の72日間は、だからこそ「祝祭」と呼ばれるにふさわしい。祝祭に身をほどき感受性を開くとき、いくらかなりと彼らの声が聞こえてくる気がする。

1871年4月。新緑が一斉に芽吹きマロニエの花咲くパリは、いつの時代とも異なる春を迎えていた。市庁舎はかつてない昂揚の日々を刻んでいた。ひと月後には燃え落ち、1882年に再建されるまで廃墟となる運命も知らずに。

さらに加えるなら、パリ市長の座もコミューヌの内戦以降空席のままにされた。パリがひとつにまとまることを政府は警戒感を抱き続ける、その神経質な表れと看做していいだろう。

パリに市長が戻ってきたのはなんと1977年、ジャック・シラクまで待たねばならない。

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