1871年1月某日:イシーの星形要塞にて

ロケット砲やスパイ衛星、ドローンだとかの登場する以前の話。街を外敵から守るにはどうするか。まず街を壁で囲う、それでも足りないとなれば壁の外、交通の要衝に砦を作る。シンプルにそう考える、パリも例外ではなかった。少なくとも1871年までは。

パリ南西方面には、市壁のすぐ外側にこの時代までの定番、星形要塞が三つ並んでいた。西側の要衝、モン・ヴァレリアンに比べると一つひとつの規模は小粒だけれど、連係すれば防御線として機能する。それは現在の地図でもはっきり確認できる。

ヴァンヴ、モンルージュの要塞は、今も軍関係の施設になっていて中には入れないので、イシーの要塞跡を目指すことにする。

メトロをイシー市役所で降りたら、砦は丘の上が相場だから、あたりを見回し迷わず上り坂へ足を運ぼう。閑静な住宅街オーギュスト・ジェルヴェ街。道なりに登るとガブリエル・ペリ街と名を変え、しばらく進むと右側に枝分かれする通りがフォール街。

ここまでの道沿いに、あのヴィクトル・ユゴーが愛人と暮らしたとプレートの懸かっている家を見つけた。上半身も下半身も超人的な文豪にとって、パリ郊外にひっそり愛の巣を営むのは胸躍る出来事だっただろう。よくもまあ打ってつけの場所を見つけたものだ。

‥‥ユゴーあたりになるとそんなことでもプレートに残されてしまうのか、脱線しそうな好奇心を元に戻す。フォールとは文字通り要塞のこと、この道をまっすぐ行けば要塞の正門に突き当たる。

1870年~71年の秋冬は例年にない寒波が訪れた。夏に始まった普仏戦争は9月初め「皇帝」が捕虜となって帝政は瓦解、早くも19日にはパリはプロシア軍に包囲される。それでも戦さはつづいていた。

凍てつく寒気の中で封鎖されたパリ市民の厳しい暮らしぶりは、モーパッサンの小説はじめ多くの文芸作品に描かれ、今でも語り草になっている。薪も炭も底をつき、犬、猫、ねずみ、動物園の動物たちも市民の胃袋に消えた。

こういう状況にあって、苦しみのあまり市民は和平を求め‥‥はしなかった。むしろ市民としての自覚、連帯感が生まれ、愛国心に目覚めていく。それも強烈に。

革命を重ねながら築きあげられてきた人びとに独特の心性なのか。そこまでは分からない。しかし、ここがおもしろい。おもしろいというのに語弊があるなら、リスペクトを覚えると言い換えてもいい。

ともかく「皇帝」の勝手に始めた戦争に、まるきり戦意など持たなかった民衆が、厳しい暮らしを強いられる土壇場になって侵略と掠奪の意味を体得し、どんどん闘争心を燃え立たせていく。

困惑したのは、皇帝の不在で発足した臨時「国防政府」の方だった。中枢メンバーは「皇帝」のもとで選ばれた「穏健派」議員たち。なんで皇帝の尻拭いをと感じる上層ブルジョワの本音は、財産と地位を守り抜きたい、誰がトップに座るにせよ。これだった。

抗戦のスタイルを取りながら、プロシアの宰相・ビスマルクとひそかに和平交渉にあたる。それが彼らの基本姿勢だった。その証拠に正規軍は戦う形を見せては敗北し、精鋭と称されていた部隊など戦わずして兵力を温存したまま降伏してしまう。

戦っているフリをしながら、いかに「やむを得ぬ」敗北という名の和平に持ち込むか。‥‥なんとも奇妙な戦争なのだ。

もっとも、戦争とはいかなる戦争であろうと究極のところでいかがわしく奇妙なものかもしれない。だとすれば、戦争の持ついかがわしさ、奇妙な本質を露骨に示していることにこそ、普仏戦争の歴史的な意味はあるとさえ思えてくる。

‥‥統治者が本当に恐れているのは、敵対する統治者であるよりもまず、自らの足許にある被統治者、民衆であるという‥‥。

1月の初めからプロシア軍のパリ攻囲の輪はさらにせばまった。雪の降り積もる厳寒のイシー要塞には文字通り、砲弾が雨あられのように投下された。

いつの間にか戦う主体は正規軍から代わって、志願してきた国民軍兵士に移っている。飢え凍えながら、孤立した要塞にやっと踏みとどまっている。‥‥整備された国家の貌ではなく、個々の民衆の貌を持ち始めていく。

兵士として充分な訓練を施されたわけでもない彼らを支えていたのは、このままではいられない、突き上げるような闘争心、それだけだった‥‥。

そんな想いにとらわれながら厳めしい要塞の門を一歩入るや、かつての激闘の最前線というイメージとのあまりのギャップに、しばし息を呑む。星形城壁の再現された遊歩道に囲まれた高台に、近代的な住宅団地が目の前に忽然と現れるからだ。

蜃気楼のように現れた。その鮮やかさに息を呑む。

歴史的建造物の跡地を取り入れながら、自立した表情を宿した現代の街。要塞であることをやめてから、ここにはどのような時が降り積もったのだろう。

かつての兵士たちの闘う意思に守られて、この街はあるのだろうか。‥‥ぼんやり歩を進めると、なんとここには日本庭園まである。市川庭園。千葉県市川市と交流都市となっているらしい。まさしく、犬も歩けば棒に当たる、というべきか。

吹き荒ぶ雪の中、飢えと寒さと絶え間ない砲弾の中で戦っていた者たちのいたところに、和風庭園の塔が立っている。

1月22日には、耐えきれずに民衆が蜂起。これをなんとか抑えこむや、慌てた国防政府はプロシアとの屈辱的な休戦条約を結ぶにいたる。この条項には、パリ城壁の武装解除が含まれていた。

普仏戦争における、イシー要塞の役目の終わりだった。

1870年9月4日:国民議会前へ » 遊歩舎
コロナ感染第二波の到来による引き籠もり生活の中で、この文章をつづっている。 「19世紀の首府」パリに、誘蛾灯まわりの虫さながら惹きつけられる者にとって、今年はひとつの大きな記念年にあたる。引き籠もりながら、撮り溜めしてお […]