1870年9月4日:国民議会前へ

コンコルド広場から国民議会を望む

コロナ感染第二波の到来による引き籠もり生活の中で、この文章をつづっている。

「19世紀の首府」パリに、誘蛾灯まわりの虫さながら惹きつけられる者にとって、今年はひとつの大きな記念年にあたる。引き籠もりながら、撮り溜めしておいた写真やメモを眺めている。

150年前の1870年、7月19日にナポレオン3世はプロシアに宣戦布告する。近現代史に大きな影を落とすことになる普仏戦争の始まりだ。

もっともこの宣戦布告、事の重大さの割に、いくら歴史書にあたってもすっきり腑に落ちるだけの理由を得られない。

なにも武力に訴えるほどのことはなかった。これは独裁国家にありがちな現象ではあるが、あえて言えば、新興プロシアの宰相ビスマルクの挑発に乗って、ついついやらかしてしまった。そんな印象を拭えない。

このビスマルクというのが煮ても焼いても食えぬ男。いくつもの領邦に分かれたドイツをまとめあげ、「遅れてきた」プロシアをヨーロッパの強国に仕立てるためには、ライン西の大国、気候風土に恵まれ地政学的に西欧の中心に位置するフランスをやるしかない、そう狙い定め、準備万端ととのえ虎視眈々と機会をうかがっていた。

かのナポレオンの甥にして陰謀家としての名声をほしいままにしてきた「皇帝」ではあったけれど、20年近い統治の日々にいささか疲れを覚えていたとして不思議はない。

倦怠感というか、正直なところ飽きてもいただろう。持病も悪化し、込み入ったことを考える集中力を失ってもいた。ましてじゃが芋と酢キャベツくらいで腹を満たしている東の小国に負けるわけはない、とのおごりもあったに違いない。

国境線地帯での苦戦を耳に、なにを馬鹿なと出陣するや呆気なく敗北、9月2日にはあっさり捕虜となる。これ、すなわち第二帝政の瓦解を意味した。

9月4日、この報が流れると、人びとは一斉に国民議会周辺に集まってきた。

勝手に始めた戦争でさっさとトップは捕まっちまい、精鋭を誇るとやらの正規軍にまったくやる気はないじゃないの。おいおい、俺たちは戦争なんぞしたかったわけじゃないのに、どうなってんだ。これからどうすんのよ。‥‥想いの発端はこんなところだったかもしれない。

‥‥そんなことを思いながら2020年9月4日、所用をすませコンコルド広場から、国民議会(ブルボン宮)方向へ向かって歩いてみた。

重い雲の垂れ込めたコンコルド橋をわたると、いかめしい男たちの座像を左右に並べ国民議会の口が開いている。セーヌ川に面したギリシア風コリント様式は権威的ではあるけれど、パリに数多くある壮大な建築物の中で、特にきわだっているわけでもない。

5月10日までの第一次、10月30日からの第二次、コロナ感染による外出制限令の合間にあたるこの日、なにより自転車利用者の多さに驚いた。

中心部から一般車輛は出来得る限り排除しようとするパリ市当局の政策と、感染病の猖獗でなるべく公共交通の人ごみは避けたいと思う心理、この両者が見事な相乗効果を挙げているようだった。

忙しく行き交う通行人は、150年前のことなどすっかり忘れ果てているように見える。しかし、それはあくまで一見そう見えるというに過ぎないことをこちらに暮らしてみて、はっきり知った。いざとなれば彼らはしっかり思い出し、はっきり意思表示することを。

いざ、というときはいつだってやってくる。「まさか」でも「信じられない」でも「うっそー」でも「前例がない」でもない。現実は現に在る、現にやって来る。現実を直視する、背筋のしゃんと伸びた心構えがあるかどうかだけが問われる。

自分の位置する場、空間的にも時間的にも自分の在る現実を知り、歴史を内面化している者を市民と定義するならば、パリが信頼に値するのは、市民の多さにあると言っていい。

150年前、三々五々、現実を直視しようとする人びとは自然にここに集まってきた。その数50万人とも言う。

津波のような群衆に囲まれ、国民議会の議員たち、帝政最末期の選挙で選ばれたからには、「消えた皇帝」支持だった多数派は生きた心地もしなかったに違いない。集った民衆意識の最大公約数は帝制打倒、共和主義政権樹立であることをよく知っていたからだ。

となれば群衆に説得力のある言葉を投げかけ、その圧力を減じるしかない。ここはひとときの妥協。少数派の共和主義者にでもここは任せるしかない、時間をかせげばいくらだって巻き返しはつく。胆力と人気とスピーチ能力のある誰か‥‥。

多数派としてもそう考えざるを得なかっただろう。そこで登場することになったのがガンベッタ、共和派議員であった彼は大群衆を前に、帝制終焉の宣言を読み上げる。

この、ガンベッタというのも血の熱い男で、後にプロシア軍に包囲されたパリから気球で脱出するなど、エピソードには事欠かない。いずれにせよ、共和制を宣言し大衆を鼓舞させるにはもってこいの人材だった。

以降150年、紆余曲折を経る。めまぐるしく数限りなく怒濤のように紆余曲折を経るけれど、ついに「王」や「皇帝」を名乗る支配者は現れることなく、歳月を重ねてきた。

‥‥これから来年の春まで、折にふれ150年前を夢想してみるつもりだ。今このときパリに居合わせることの意味はここにある、と個人的には思い見なしている。

1871年1月某日:イシーの星形要塞にて » 遊歩舎
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