革命とブランド・ショップと:サントノレ街の昼下がり(3)

アンドレ・マルロー広場。ここからオペラ大通り、19世紀オスマン知事によるパリ改造のうちでも最高傑作のひとつに数えられる大通りが伸びる。

ナポレオン3世を名乗る「皇帝」と彼に見込まれた知事、ふたりの都市改造マニアがタッグを組んだ、最強コンビの仕事ぶりをたっぷり味わうことが出来る。

今回は、近代都市または帝都としての機能と美観という観点から離れ、土木事業としていかに規模の大きなものだったかについて、あらためて眺めてみたい。なにしろオペラ座の完成ひとつを取ってみても、言い出しっぺの皇帝が失脚した後のことだったくらいの事業規模なのだ。

しかも荒野のさら地に街並みを、いわば白紙に絵を描くように組み立てたわけではない。絵を描く前のキャンバス作り。入り組んだ市街地を整理し、起伏のある土地を整備する、それだけでも気の遠くなるような道筋だった。

狂気に近い情熱と不屈の意思、思いのままの街並みを現出させる妄執のようなものにとらわれていたとさえ言えるだろう。‥‥などと強調するのも、現在サントノレ街からオペラ大通りの始まる丁字をなすあたりに、かつては小高い丘が横たわっていたようだからだ。

いくつかの証言を頼りに改造以前のパリの古地図に目を凝らすと、このあたりに建物の表示は見当たらず、小道が何本も通っている。そのうちの長めの一本には「ムーラン街」と名がついていたと分かる。と言うことはこのあたり、風車小屋の立つ丘だったのだろうと推察できる。

丘を削り、眺望を切り開き、文化の殿堂・オペラ座への大通りを築いた。逆に言うと、19世紀半ばまでは右手に小高い丘を見ながらサントノレ街を進むと、そのすぐ西側にサン・ロック教会が立っていたことになる。

削られた丘のあった地形を頭におくと、奇妙に奥行きの深いサン・ロック教会の構造も、丘の外縁に沿っていたせいかと理解できる。ルイ14世時代に着工されながら、資金繰りがつかずに設計も変更され、18世紀の初頭にやっと一応完成となったものだという。

大革命の混乱で、教会内に飾られていた絵画・美術品はことごとく姿を消したそうだが、なにも古ければいいというものでもない。19世紀以降の彫刻、絵画が、時代を帯びた建築と織りなす空間は劇的だ。宗教建築とは、本来的に劇場なのだとの想いを新たにする。

劇場と言えば、ここには17世紀古典主義演劇の巨匠、コルネイユが眠る。ラシーヌ、モリエールと並び称され、今でも上演される機会の多い、あのコルネイユだ。

またヴェルサイユ宮の庭園や、すぐ近くテュイルリー宮の庭園の設計で知られる、フランス庭園建築の最高峰ル・ノートルもここに眠る。

正直なところ、あまり予備知識もなく、少し休んでいこうと教会に入り込むと予期せぬ、とんでもない歴史上のビッグネームと遭遇することになる。

フランス大革命当時、王党派の反革命軍が集結し、皇帝になる以前の、まだ革命派の将軍だったナポレオンが部下を引き連れ、この教会に向けて一斉射撃したというエピソードも残っている。

このエピソードが示すように、この教会あたりからサントノレ街はフランス大革命の立役者たちがしきりに往来した箇所となる。そこが、現在では世界有数のブランド・ショップの並ぶ街区となり変わっているのも、歳月と歴史のなせるワザというべきだろうか。

たとえば、オランプ・ド・グージュ。「人権宣言」に対して「女権宣言」を発表し、フェミニズム運動の先駆者とされる彼女は、270番地に住んでいたと表示されている。

マルシェ・サントノレのところには、ジャコバン派の集まるジャコバン・クラブがあった。もっと正確に言えば、ここのジャコバン・クラブに集まっていたから、ジャコバン派と呼ばれるようになった。

211番地。貴族に生まれながら血の気が多く、アメリカ独立戦争にまで参戦し、既成の王党派の枠にはまらなかったラファイエット、その夫人の実家がここにあり、その豪邸で結婚式を挙げたとある。

235番地にはジャコバン派と対立する、穏健派のフイヤン派が集まった。ジャコバンにしろフイヤンにしろ修道院の名前で、それぞれが修道院に集まっていたことになる。

それほど修道院、教会などカトリック宗教施設は多かったわけだが、政敵、諸党派、すぐ隣組同士というほどの距離でわいわいやっていたのか、と素朴に驚かされる。

彼らの利用した施設は、カトリック教会勢力の在りようそのものが問われ、革命の過程でその多くは破壊、没収の対象となった。これもまた、歴史の持つアイロニーだろうか。

このあたり現在でも残る、目につく宗教施設と言えば、コンボン街との角に立つノートルダム・ドゥ・ラソンプシオン教会くらいのものか。教会は小ぶりながらローマ風のドームが目を惹く。教会前の広場とのバランスも絵になる。

そして、さらに歩を進めた右側398番地には、ロベスピエールが暮らしていたとのプレートが掲げられている。フランス革命推進の中心人物が権力を獲得して恐怖政治を断行し、テルミドールの反動で失脚するまでここに、と考えるだけで呆然としてしまう。

有名ブランド店のショウウィンドウに埋まるように、大革命の跡が残る。あらためてその想いにとらわれながら歩を進めると、そこはもうロワイヤル街との交差点。

ここには17世紀に建造された「ルイ13世の壁」のサントノレ門があった。市街地が膨れ上がるたびに、サントノレ門は西側へ、西側へと移動していく。

右にマドレーヌ寺院、左にコンコルド広場を望む道を渡ると、かつての市壁の外へ。ここでサントノレ街には「フォーブール」の冠がつき、フォーブール・サントノレ街と名を変えることになる。

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