市門の在り処:サントノレ街の昼下がり(2)

ルーヴル街との交差点から、サントノレ街を西へ進む。

左手に見える広場はルーヴル宮の東端にあたり、正方形の中庭を擁する宮殿本体部分というべき部分。ここからテュイルリー公園まで、リヴォリ街とセーヌ川の間に延々と巨大な身を横たえる。

レ・アルに沿った街からルーヴル宮に沿った街へ。この交差点をわたるとサントノレ街のにおい、雰囲気も微妙に変わることになる。

まず目に飛び込んでくる大きな堂宇はオラトリオ教会。宗教改革に対して旧教側からもカトリックの刷新運動が起こるが、そのひとつでルイ13世時代に創設されたオラトリオ会はここを本拠とした。

熱心な布教教育で、イエズス会のライヴァルと目されるほどの存在だったようだが、なにせ王室との関係が深過ぎたのだろう。フランス革命の荒波にさらされ、よりによってこの拠点は新教徒側に譲渡されるという数奇な運命をたどることになる。

ところで、この教会はかつての市壁、フィリップ・オーギュストの市門のあった場所に位置している。シテ島を中心にぐるりと市街地を囲むように、1200年前後に建設された市壁のサントノレ門はここにあった。

言い換えれば、当時のパリの市域はここまでだった。このときパリ右岸の西側を守るために建設されたのがルーヴルの要塞で、それは先刻触れた正方形の中庭あたりに位置していた。ここから市壁が延びてきていてサントノレ街とぶつかったところに市門は開かれた。

市の中央部から外側へ伸びる街道を歩くときには、いつでもこの、かつての境界を超えるという感覚を大切にしている。

それはパリという街の成長拡大のメルクマールのようなもの。歳月を超えて街に宿る、風景のグラデーションを掬いとることに、街歩きの醍醐味を感じるからでもある。

すぐ右手にジャンジャック・ルソー街が見える、ここを曲がれば19番地に、19世紀パリを代表する屋根付きパサージュ、ギャルリ・ヴェロ・ドダが口を開けている。

‥‥さらにサントノレ街を進むと、パレ・ロワイヤル広場。リヴォリ街までの広場越しにルーヴル宮が望め、右手にはパレ・ロワイヤルの正面がいかめしい表情でそびえている。

このあたり、ダルタニャンと三銃士でおなじみ、リシュリュー枢機卿やルイ13世の時代から政治・歴史劇の舞台になってきたところ。国王とか皇帝とかを名乗る者たちが最終的に姿を消すまで、いかに多くの血が流されてきたことか。

歴史と向き合うとは、流された血と向き合うことかもしれない。ひとときこの広場に佇むとき、その想いを新たにせずにはいられない。

コレット広場からルーヴル宮を望む

現在パレ・ロワイヤルには、法治国家フランス共和国の統治システムの一翼を担う Conseil d’État(国務院と訳される)が広場を前に威容を誇り、コレット広場とコメディ・フランセーズがこれと並ぶ。

コレット広場を過ぎると、右側にオペラ大通り。19世紀第二帝政下のご存じオスマンによる都市改造、パリ近代都市化構想の中で、景観としてもっとも成功した例とされる。オペラ・ガルニエ宮に至る大通りは、パリ近代化のひとつの象徴でもある。

この景観に見惚れたまま通り過ぎぬよう、163番地に注目。かつてここには市壁が築かれサントノレの市門が開いていた。‥‥というとオラトリオ教会のところの記述と重なってしまうようだが、それは1200年の話、ここはシャルル5世によって1380年に築かれたもの。

つまり180年の間に、このあたりでは直線距離にして300メートル弱、パリ市街は膨張したことになる。以前の市壁が取り壊され、ここに新たなものが造られた。パレ・ロワイヤルのある地もこのときパリ市に編入されたわけだ。

そう考えながらあらためて見まわすと感慨深い。特筆に値するのは、1429年9月8日、かのジャンヌ・ダルクがここに攻め入ってきたこと。注意しておきたいのは、ジャンヌ・ダルクはあくまでパリに攻め込んできた側であるという事実だ。

ジャンヌ・ダルクというと「フランス救国の闘う乙女」のイメージが強い。実際、敵軍イングランドに引き渡されて焚刑に処され、後にローマ教皇から聖人として列聖された。

ただ、これを現代風の「戦争」に当てはめるのはやめておこう。敵軍イングランド云々といっても、単にイングランド王家のこと。王家同士が婚姻したり縁続きだったり、はっきり言って誰が味方で、どこが敵対者か庶民レベルには無関係だった。

まして当時のフランス王家は二派に分かれて争っていた。日本史で言えば南北朝の騒乱のようなもの。そのうちの一方に、神の声を聞いて肩入れしたという彼女は、軍事指揮者として能力を発揮。劣勢だった味方を幾たびも勝利に導く。言ってみれば楠木正成のようなものだろう。

その能力をもってしてもパリを攻略することはできなかった。ジャンヌ・ダルクの反対勢力(ブルゴーニュ派)が押さえているパリへと攻め入り、あっけなく傷を負い撃退される。それがここ、シャルル5世による市壁の、サントノレ門のところだったのだ。

時代と共に歴史的評価は移っていく。ときには伝説、神話へと姿を変えて。

その証拠に、サントノレ街をここからしばらく進んだピラミッド街との交差点で左側に眼をやると、黄金のジャンヌ・ダルク騎馬像の背面を眺めることになる。

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