パリ中央部からは、四方に街道が伸びる。西へ向かう古い街道はサントノレ街。歴史の中に埋め込まれているパリを五感の中で開放していくつもりで、歩いてみよう。
メトロの網の目の中心、シャトレで降りたらデ・アル街へ。左方向へカーヴすると、いつの間にか道の名はサントノレへと移り変わる。それはいいのだけれど、番地が不自然。どこからサントノレ街が始まるのか判然としない。
いきなり大問題にぶつかってしまったが、どうもこういう事情だったのではないか、と想像半分にまとめてみる。
12世紀末には整備されたという中世の道は、東側のフェロンヌリ街の延長と位置づけられていたものらしい。このあたりはレ・アル、中央食品市場に隣接した地域で、その変貌と共に街並みも変貌を重ねてきた。
パリ市の規模と人口が増えれば、中央市場は拡大し、整備されるが、さらに人口と規模が拡大すれば、まかないきれずに郊外へ移転し、跡地には新しい商業施設と公園が出現することになる。
こうした動きと街並みの変貌のうちに、もともとのサントノレ街の起点は消えてしまったのではあるまいか。
真偽を確認するにいたってはいないが、いずれにしても、1960年代に移転した「パリの胃袋」中央食品市場と関連していることは確かだと思う。
ポン・ヌフ街、さらに次のプルヴェール街との交差点、いずれでも右側を見ると、市場跡地に整備された公園の向こうに聳えているサン・トゥスタッシュ教会の巨大な堂宇が目に入る。この教会は市場の守護神のような存在、こうして教会を目にするだけで、当時の活気に満ちた街の賑わいが聞こえてくるような気になる。
実際このあたりには、市場あってこそ開店したのだろうと思われる老舗の食料品店が、現在でも営業していたりする。歩くたびに気になりチェックしてはいるものの、いまだに実際に利用する機会には恵まれない。
91番地はギャラリーやファッション関係の小型店舗が何軒か入っていて、建物内部に入り込めるスポットになっている。間口は狭いがいくつかの中庭(というより坪庭)を含んで奥行きの深いことが分かる。京都の商家などにあるのと共通したスタイルだ。
隣の93番地、95番地の2階部分にも注目したい。現在営業中の店とは関係なく、19世紀初めの頃の商店の看板がそのまま残されている。バルザックやドラクロワも目にしていただろうと、しばしたたずむ。
市場に農作物や畜産品を運び込む荷馬車と、食道楽の文人芸術家を乗せた辻馬車の擦れ違う19世紀の光景を頭に描いていると、いきなりクロワ・デュ・トラオールの泉が出現。時間をさらに巻き戻される。
現在のものは18世紀後半に造られたものだが、ここの泉の起源は古い。もしかすると、サントノレ街そのものと同じだけの歴史を持つものかもしれない。
この泉のある辻には市が立ち、人びとの往来で賑わっていた。そんなある日、具体的には1648年8月26日、王母アンヌ・ドートリッシュと高等法院有力者の馬車がここで出くわし、諍いを起こす。これがフロンドの乱の発端になったのだという。
強大化する王権に対する貴族諸侯の反乱で、この反乱を乗り切ることで絶対王政の確立に至ったとされる。10歳に満たぬ少年王ルイ14世は最終的に勝利したとはいえ、このとき味わった恐怖が後のヴェルサイユ宮造営、パリを逃げ出す心理的な契機になったと指摘されている。
泉の水を壺に受けながら世間噺に余念のないおかみさんたち、市場へ運び込む野菜を満載した荷馬車で通りかかかった近在の百姓たち。彼らがたまたま立ち会い、目にすることになった歴史上の大事件を思い描いてみる。
統治者たちと民衆と。この時代に交わされた視線にはどのような想いが込められていたのだろう。
115番地の薬局には、パリでもっとも古い薬屋のひとつ、との看板が出ている。少なくとも1715年のルイ14世死去の頃には開業しており、国王の薬剤師が立ち寄ったとの記録があるそうだ。

一つひとつの事実を確かめるだけの能力はない。また、そうするだけの気力もない。しかし、この古い街の持つ物語、その雰囲気だけでも味わっておきたい。そして、いくらかなりと伝えておきたい。
などと考えているうちにルーヴル街との交差点に。19世紀に整備された、道幅の広い直線的な街路によってサントノレ街は切断されてしまった印象を受ける。
かつての中央食品市場の記憶を、今に伝える街並みはここまで。サントノレ街はここから、別の貌を持つことになる。