ジョルジュ・ブラッサンス公園は至れり尽くせり

もともと城壁に囲まれていたせいもある。限りあるスペースで、パリジャンはみっしり身を寄せ合い生きてきたから、公園・緑地がいかに貴重か、身に沁みて知っているのだろう。

もっとも、ひと口に緑地と言っても造成された目的や年代、地域によってさまざまな形態がある。歴史あるジャルダンから19世紀に整備された公園、街角の小さな緑地、エトセトラエトセトラ。

そんな中で今回は、戦後に造られた新しいタイプ、ジョルジュ・ブラッサンス公園を紹介しよう。

パリ南西部にあたる15区、メトロ12号線のコンヴァンシオン駅を降りたら、商店街を東へ。道の名前がコンヴァンシオンからヴイエと変わる交差点で、クロスタ街方向に右折。広い道の突き当たりに、雄牛の像の載った門が見えてくる。

これが公園の正門で、かつてここが屠殺場だったことを示している。場末と言ってよかった地が、人口の増加で次第に住宅街に生まれ変わると1975年に屠殺場は閉鎖され、その跡地は公園に生まれ変わることになった。

屠殺場時代からの生き残り、この公園のシンボルになっている鐘楼は、中央の池に面して立っている。そしてもうひとつ当時の面影を宿すのは、正面から入って左側、ブランシオン街に面した馬市場だったスペースで、ここでは現在、定期的に古書市が開かれる。

300メートル四方ほどの広さの公園に池あり、丘状に盛り上がった部分あり、中央には広場、芝生が広がるかと思えば、木立の中にベンチの点在する空間、小さい屋外ステージのある一角と、盛り沢山の表情が隣り合っている。

18世紀まで広がっていた農地を再現すべく葡萄畑が丘の斜面に作られ、狭いながらバラ園があるかと思えば、隣接して本格的なテアトルが立っていたりする。子どものためには回転木馬、人形劇場、ポニーから各種遊具、ロッククライミング風に遊べる石壁まで。

芝生の上にシートを広げて「草上の昼餐」、水着姿で寝転がって甲羅干し。屋外ステージではヨガのポーズを取るグループ、ヘルメットをかぶった子ども達はポニーの背中で揺れている。

木陰のベンチで読書する熟年ムッシュ、パソコンを広げる青年、いつ果てるとも知れぬお喋りに熱中するカップルもあれば、ひたすらぼんやり物思う年配のマダムもいる。犬と散歩を楽しむ若者が行き過ぎれば、骨折した脚のリハビリで歩き回っているのだろう、松葉杖片手に歯を食いしばって通り過ぎる少女もいる。

‥‥見ているだけで飽きない。思い思いに時を送る人びと、その姿を目にしながら過ごす時の贅沢さを覚える。

風の吹き抜ける公園に腰を落ち着け、つくづく感心するのはこの街に暮らす人びと、老若男女のライフスタイルをきめ細かに織り込んで設計されていること。

たとえば、三世代の家族で出掛けるとする。陽光の降りそそぐ芝生の上にベースキャンプを張れば、祖父祖母、父母、子どもたち、それぞれが時には一緒に、時にはそれぞれがそれぞれの気分に応じて出張したり、歩きまわったり、寛ろぐことはもちろん、場合によっては学び、仕事をすることさえ可能だ。

王侯貴族の庭園ではなく、皇帝の都市計画の産物でもない。住民のニーズを念頭に組み立てられた、現代の公園の面目躍如というところか。

しかも、これほどコンパクトに多機能性を持ちながら、計算・思惑ばかり空回りして、利用者が置いてけぼりを食ったと感じさせることはない。都市住宅地における公園とは何か、ひとつのモデルケースと言ってもいいのではないか。

公園の名前の由来は、この近くに暮らしていた、詩人であり歌手であったブラッサンス。反体制反権力の姿勢を貫き1981年に他界した、心優しきアナーキストのシャンソン歌手は、今でも根強い人気で輝きを失わない。

今やどこへ行っても主流となったショウ・ビジネスのエンターテイナーと、まったく逆の道を行った吟遊詩人は、ギター一本を抱え諷刺の利いた詩を口ずさんだ。

公園が完成し開園したのは1983年のことだから、自分の名前が公園に付けられることを知っていたのかどうかは微妙なところだ。

公園の中に置かれた胸像を見ていると、それを喜んでいるようにも戸惑っているようにも感じられる。