椿姫の墓地を訪ねる:荷風に誘われて

一年に満たぬフランス滞在をもとにまとめた、永井荷風の「ふらんす物語」に「墓詣」という一文がある。モンマルトル墓地に椿姫の墓を詣で、ふたりの遊び女〔め〕と知り合う掌篇。

自ら種明かししているようにモーパッサンの小説、ひとり墓地で愛の追憶にふける紳士に狙いを定めて近寄る、一見清楚で貞淑な女性を描いた短篇「墓場の女」を下敷きに、椿姫のエピソードと絡めたものだ。

20世紀初頭、憧れの巴里〔パリ〕にやっと身を置いた荷風は、彼の読書体験のうちで気になっていた場所を意欲的に訪ね歩いた。そのうちでも椿姫にまつわるモンマルトル墓地は、格別の興趣を呼び起こすものだったに違いない。

ベル・エポックと呼ばれる19世紀末以来、パリの代表的な歓楽街として名を馳せるクリシー大通り。ブロンシュ広場とクリシー広場をつなぐ大通りにはフレンチ・カンカンの聖地ムーラン・ルージュはじめ、キャバレ、テアトル、カフェが並び、途中で枝分かれしたアヴニュー・ラシェルに歩を進めると、墓地の正門に運ばれる。

紅楼〔こうろう〕の巷〔ちまた〕と、墓所は隣り合わせになっていて、ここでもまた、そういう原理が働いているのかと頷きたくなる。かつての廓〔くるわ〕と寺社の関係を例に出すまでもなく、洋の東西を問わず、時の新旧を問わず、街はそのようなものとしてあった。

人びとの暮らす街の周縁に非日常の「異界」の並び合うのは、偶然ではない。ひとは街をそのように造ってきたし、そのように暮らしてきた。このあたりに、荷風はたまらなく魅力を覚えていたのではないだろうか。

モンマルトルの墓地は19世紀~20世紀に活躍した多くの著名人が眠る、追憶と追想の場と呼ぶにふさわしい空間だ。芸術家、科学者から政治家、実業家まで、威風堂々たる人びとに混ざって、1824年に生まれ、結核を患い23歳の若さで逝った椿姫、アルフォンシーヌ・プレシスが眠る。

墓地の正門を入ったところに掲げられた地図を頼りに、左手の塀に平行したサン・シャルルと名付けられた道を15区画へと進む。個性的なデザインの墓所も数多くあるから、決して目立つ方ではないけれど、金色に縁取られた白い墓石はシックな印象を与える。

ヴェルディのオペラで不朽の存在となった椿姫の墓所を詣でるひとは多く、捧げられる花は絶えない。もっともその中に、荷風描くところの椿姫の同業者が含まれているのかどうかまでは分からない。

オペラの原作であるデュマ・フィスの小説は、自身の体験をほぼ忠実に映しているそうだから、アルフォンシーヌはデュマ・フィス、ヴェルディと一流の作家に霊感を与えながら生き続け、一世紀半を経た現在にいたるまで、こうして人びとを集め跪〔ひざまず〕かせずにはおかないことになる。

若くして失われた愛の記憶は、デュマ・フィスのうちでどのような醱酵を遂げたのだろう。アルフォンシーヌの歿後、功成り名遂げ家庭にも恵まれた彼が、半世紀を経て自らの死を悟ったとき、永遠〔とわ〕の憩いの地としたのは彼女の墓所の近くだった。

老いたデュマ・フィスがベッド上に横たわるさまをリアルに再現している墓所を目の当たりにして、そのデザインの好悪は問わぬこととして、ひとつの愛の成就には胸打たれるものがある。20代から70代へ、いかなる時が流れても涸〔か〕れることのなかった愛惜と悔恨を思わぬわけにはいかない。

実際、高級娼婦は、さまざまな文芸作品、劇作から美術作品に数多く登場する、19世紀から20世紀フランス社会を語るに欠かせぬ存在だ。中には政治、経済、外交面に計り知れない影響力を発揮した者もいる。

庶民の子に生まれながら、持ち前の美貌と才覚を武器に文化的な洗練を遂げることによって、一流の人士を手玉に取る。その手腕が伝説となり、さらに権勢を持つ男たちを惹きつけていく‥‥。この上昇の物語はロマン主義的嗜好にぴったりくる。しかも背徳的で耽美的なにおいを醸すとあっては、なおさら神秘化される。

1908年、荷風もここを歩いたのだとの感慨を新たに、墓地と娼婦の組み合わせは、彼の文学の基本的なエレメントになるのかもしれないとまとめてみる。

ただここで、その娼婦たるもの果たして椿姫に代表される者たちだっただろうか、との疑問が首をもたげる。まだ若かった荷風自身はっきり意識したかどうかは別として、それでも何か異なる、肌合いの違いを覚えたとして不思議はない。

椿姫はモーパッサンの小説に出てくる遊び女のように、すぐ隣にでも住んでいそうな身近な存在ではない。上流社会を泳いで盛名を馳せる女性は、いかに薄命薄幸であろうと荷風の世界の住人ではないような気がする。

「濹東綺譚」のお雪は椿姫たり得ないし、ほぼ荷風その人と重なり合う語り手の視点、体感温度のようなものはデュマ・フィスのそれと大いに異なる。

モンマルトルの丘の中腹を削り取った地に位置する墓地は、かつて石切り場だったところだという。首筋にひんやりと風の吹き抜けるのを感じながら、モンマルトル墓地から、東京・三ノ輪の土手通り、浄閑寺を想い起こす。

「生れては苦界、死しては浄閑寺」と詠まれた、吉原遊郭の遊女たちの投げ込み寺。天涯孤独、本名さえ忘れ去られた数多くの遊女たちの慰霊碑のすぐ近くに荷風の筆塚はあり、毎年ここで荷風忌も営まれる。

投げ込み寺に眠る遊女たちと荷風の描く星座は、アルフォンシーヌとデュマ・フィスの織りなす星座とは対極の空に輝くものではないか‥‥。

30歳になるかならぬかの荷風の文章を読みなおすと、リズミカルな美文の連らなりは、どこかぬめりと薄気味悪い。荷風にならってモンマルトルの墓地を歩く。その薄気味悪さに嫌悪感を覚えているか、魅力を感じているかさえもはや定かでなくなるのを感じながら。いつしか喉の渇きを覚えている。