セーヌ川は左へ右へくねくね身をよじらせながら流れ、海を目指す。パリ南西部で市域をはずれると急カーヴを描き、ブーローニュの森を回り込み、パリ外縁に沿って北上する。
パリ市域のすぐ西側は、このセーヌの流れを谷間にした小高い丘陵がつらなり、モン・ヴァレリアンの要塞はひときわ高く際立った地点を利用して構築された。
1840年代、7月王政の時代に建造された要塞は、パリを守る西部前線の拠点として意図計画されたわけだが、不幸なことに、充分過ぎる以上にその意図を発揮せざるを得ない歴史を経てきた。
それは近代フランス、その首府としてのパリが負わざるを得なかった宿命のようなものかもしれない。
現在、広大なセレモニーの場の中心には炎が燃え「何事にあっても、レジスタンスの炎は消えぬ」とドゴール将軍の言葉が刻まれている。
この、決して消えることのない炎に代表されるように、第二次世界大戦で戦った連合国軍兵士、大量殺戮の犠牲となったユダヤ人、レジスタンスに立ち上がり斃れた人びとを悼み追憶する場として墓所があり、記念碑の立つ巨大な施設となっている。
それを巡るだけでも訪ねる価値は充分にある。ただし今回の、個人的な目的は第二次大戦からさかのぼること70年、1870年から71年の普仏戦争からコミューヌの内戦にかけても、大きなポイントとなった、その地をこの目で実感しておきたかったからだ。
ルーヴル宮の中心線からコンコルド広場のオベリスク、シャンゼリゼ大通り、凱旋門を貫く線、パリの横軸の延長上に建つ「硝子の凱旋門」を中心に、現在では近代的な高層ビルの林立する、首府圏屈指のビジネス街になっているラ・デファンスは、思っていた以上に近い。
ラ・デファンスからはバスの便もあるが、専用軌道を走るトラム2号線を利用して、ベルヴェデールかその次のシュレンヌ・ロンシャンの駅で下車、閑静な住宅街のひろがる丘を登っていくと、より地理的な感覚を摑むことが出来る。
ここは前後左右きょろきょろ見回しながら歩を進めよう。かつての軍参謀、作戦立案者にでもなったつもりで。
モン・ヴァレリアンを占領してしまえば、そこからの援護を背景にラ・デファンスまで一気に軍を進めることは可能だ。ラ・デファンスからは東に向けて一直線、勢いにのってパリ市攻略はたやすい。セーヌを渡れば、そこはもうパリだ。
コミューヌの内乱で、ヴェルサイユに撤退したティエールの「政府軍」は、プロシアに支持され現にそうしてパリになだれこんだ。住宅街の坂道から緑地の公園を歩きながら、1871年早春の戦いに想いを馳せる‥‥。
圧倒的な物量を誇るプロフェッショナルの軍隊相手に、志願兵中心のコミューヌは戦意の高さと反比例して、絶望的な戦いを強いられる。
‥‥地図を掲げる。モン・ヴァレリアンの要塞とその周辺。五角形の星形を見ると‥‥どこかでこの形をした要塞を目にした覚えのある方も多いのではないだろうか。
北海道は函館の五稜郭。‥‥そっくりなのも当然で、幕末の開国で函館(当時の表記では箱館)を開港するにあたって、フランス軍人の指導の下に幕府が建築したものだからだ。
この地は江戸と明治、時代を画する戊辰戦争の最後の舞台として歴史に名を刻む。榎本武揚率いる反薩長・官軍勢力はここに立て籠もり敗北、投降した。
幕末から維新期に活躍した者たちについて、史実と講談まがいの伝説が錯綜する現在、実像を把握するのは困難で、扱いは慎重を要する。その点を考慮に入れても、この榎本武揚という人物はスケールの大きな傑物であったと思う。
反薩長・官軍と表記したのも、彼が単なる佐幕派の枠にとどまってはいないからだ。なにしろ彼の唱えていたのは「蝦夷共和国」の建設、まとまった期間オランダに留学して学んだ視野の広さも本物だ。
脱線しそうな話を、もとに戻そう。‥‥この星形要塞、いったいなぜこんな形をしているのだろうと常々疑問に感じてきた。そう言えばアメリカ合衆国の国防総省もペンタゴン、つまり五角形だ。五角形にこだわるのにはどんな意味があるのだろう。
歴史的にはルネサンス期のイタリアに起源があり、ルイ14世治下のフランス絶対主義王政時代に完成された、要塞の建築様式ということらしい。
軍事学とか建築学とかまったくの素人には充分に分かったと言い切れないのだが、要するに守り手にとって死角をなくすという命題を追求していった結果らしい。それまでの円形、四角形では要塞の守備隊からどうしても死角になる部分がある。星形要塞はそれを防ぐ構造を模索、追求した答えだというのだ。
分かったような分からぬような‥‥という理解でお許し願いたい。要塞の究極的な完成形が「国防」のシンボルの形になっていったのは、象徴性として理解できる。‥‥もっともミサイルだとかドローンだとかが主力になってきた時代には、もはや意味をなさないだろうが。
いかなる政治的信念や創意工夫より、軍事技術の進歩が独り歩きしている現在、星形要塞も歴史博物館行きの代物かもしれない。それでも、いやそれだからこそ、コミューヌの兵士たちと榎本武揚のもとに集った反官軍の闘士たちの姿が重なる。
‥‥彼らを支えた理念や想いの強さこそ捉えなおされ、称揚される日は必ずくる、そう感じながら。