シャン・ド・マルスと言えばエッフェル塔。エッフェル塔の立つ公園‥‥。実際、セーヌを挟んでシャイヨ宮のあるトロカデロの丘と共に、エッフェル塔を眺め、その姿を味わうには最適の地だ。
しかし、エッフェル塔あってのシャン・ド・マルスではなく、シャン・ド・マルスあってのエッフェル塔であることはお忘れなく。
シャン・ド・マルスの「マルス」はギリシア・ローマ神話の軍神、戦いの神だから「軍神が原」とでもいう意味になるのは、もともと18世紀に建築された士官学校の練兵場にふさわしく名付けられたのだろう。
ラ・モット・ピケ大通りに現在でもで~んと威容を誇る、少々陰鬱な印象を与える建物エコール・ミリテール(士官学校)の正面に広がる付属施設だったわけだ。‥‥と充分に納得したら、今や市民の憩いの場であるシャン・ド・マルス庭園を縦断することにしよう。
正面入り口中央、馬上の軍人はジョフル、第一次大戦時の最高司令官だったとある。像のすぐ前、世界中の言語で「平和」と書かれた透明な板で出来たモニュメントを眺めていると「戦い、戦争」と「平和」は表裏一体だなとしみじみ感じる。
この地が18世紀末に一般市民に開放されると、これだけの広さを持った空間は、時期が時期だったせいもあってフランス大革命と結びついた儀礼、祭典の場として用いられることになる。その記憶は折にふれて甦り、今につながっている‥‥。
時代順で挙げるとまず連盟祭、バスティーユ監獄襲撃一周年を祝って1790年7月14日に挙行された30万人規模の大集会。アメリカ独立戦争に参戦したことでも名高いラファイエット将軍が、国家と憲法に対する忠誠を誓い、ルイ16世が民衆の熱狂のうちに誓いを繰り返した。つまりこのときはまだ王制は否定されておらず、国王は国民と共にあった。
それが4年後の1794年になると事態はまったく異なるものとなっている。6月8日に同じ場所で挙行された式典「最高存在の祭典」の主役はロベスピエール、革命の理念を示す祭典として開かれたものだが、国王、王党派はもとより共和派の内でも粛清に継ぐ粛清、ギロチンの休む間もない恐怖政治の渦中のことだった。
19世紀後半から20世紀にかけて幾度となく開かれた万国博覧会の主要会場となったのもここだが、とりわけ革命100年を記念した1889年の万博を機に建てられたのが、エッフェル塔であることは付け加えるまでもないかもしれない。
それでも、あらためて革命100年とエッフェル塔、シャン・ド・マルスと考え合わせると感慨深いものがある。‥‥ナポレオンが登場するかと思えば、王政復古もあった、戦争も内戦も経験する。
幾度もバリケードが築かれ多くの血が流れ、ジグザグを繰り返しながら、フランス革命の精神が根付くのに、この100年間という歳月を要したことを思うと。
案外知られていないが、1989年、つまり革命200年記念のモニュメントもある。フランス革命の基本精神であり、フランスにとどまらず世界の歴史の流れを変えることになった「人権宣言」(人間と市民の権利の宣言)の不滅を言明するものだ。
フランス革命の大きさは、人間の普遍的な在りようを常に視座に入れ、理念と現実の整合性を取ろうと苦闘しつづけてきた点に尽きるのではないだろうか。その意味で「人権宣言」はひとつの大きな集約であり、達成であった。
このモニュメントはうっかりすると見落としかねない。士官学校を背にして、緑地を右側の縁〔ふち〕に沿って進むと、子どもたちの遊具施設のある手前に、2本のオベリスクを中心に各年代を代表する4人の人物像が見えてくる。
古代ギリシア劇を思わせる、無駄のない像の配置と空間構成が、すとんとメッセージを投げ掛けてくるようだ。
再び緑地中央に立ち戻り、セーヌ方面へと歩を進める。歩くに従って、エッフェル塔の姿は大きく浮かびあがってくる。シャン・ド・マルスを横断する形の広いバス通りを渡ると、エッフェル塔目当ての人びとが俄然多くなる。
2015年のイスラム聖戦主義者たちによる連続テロの後、警備上の問題から、ここには柵が設けられるようになった。場合によってはこまかく持ち物チェックをされることもある。それでも各種の大小さまざまな催しは予定通り実施されてきた。
テロとの戦い、それは市民が普段通りに暮らすこと。日常を生きること。理不尽な暴力に動揺しない。挑発に乗らない。‥‥歴史から学び取ってきた彼らの共通認識のようなものに、しばしば教えられ衝撃を覚える。
そして毎年の革命記念日7月14日、締めはなんといってもエッフェル塔から打ち上げられる花火大会だ。その年ごとのテーマによって組み立てられる、とっておきの30分のショウを楽しみに、シャン・ド・マルスは人びとで埋まる。
こうして革命の精神と伝統は刻印され、受け継がれていく。