大団円:フィリップ・オーギュストの城壁めぐり その8

ゲネゴー街を抜けると、セーヌ左岸コンティ河岸。ブキニストの並ぶ向こうに、シテ島の西端が見える。アンリ4世騎馬像も小さく斜め後ろから見え、雨の日も風の日も休むことなく馬上にある国王の姿は、なぜか笑いを誘う。うっかり像にでもされた日にはなかなか大変だ。

造幣局から学士院方向へ。造幣局を通り過ぎると、ここにもフランス革命期の哲学者、数学者、政治家であったコンドルセの像。いや、こちらもご苦労さまと立ち去ろうとしたところ、その後方に「パリの歴史」碑が立っていることに、からくも気づく。

物好きな散歩者にとって、この碑を写真におさめ、後で辞書をめくりめくり年表をひっくり返しというのが基本作業になる。

「パリ歴史地図」(東京書籍)の図版より。今回の対象地は左端、河を挟んで

‥‥そしてコンティ広場につづくフランス学士院の建物のすぐ端、ここに「フィリップ・オーギュストの城壁左岸の端であるネールの塔はここにあった」というプレートと、その鳥瞰図のプレートが貼られている。

塔の建造を仕切った人物の名からフィリップ・アムランの塔とも呼ばれるが、要塞として拡大強化されネールの城砦の一部に組み込まれたため、ネールの塔と呼ばれるのが一般化しているようだ。

15世紀の詩人、フランソワ・ヴィヨンの詠んだ、美しくも淫乱、夜ごと引き込んだ男を殺し切り刻んでは捨てたという王妃の伝説と共に、現在もなおその名を記憶される塔なのだそうだ。中世趣味をお持ちの方がたには妖しい魅力を放つに違いない、ネールの塔。

本来の役割は右岸のコワンの塔と太い鉄の鎖で結びつけ、セーヌ川をさかのぼってくる船をブロックすること。パリの富を奪おうとやってくる、勇猛果敢なノルマンの攻撃から市域を守ることにあった。

日本でいえば源平合戦から鎌倉幕府の成立した時代。十字軍だ、王権だ教皇権だと騒ごうが、しょせん西ヨーロッパの王家はどこかで血縁のつながった者同士で、相続と名誉のために領地・領民を賭けては相争っていたと言って大きな間違いはない。

戦闘大好きで攻撃的なライバル、リチャード獅子心王などを相手に、フィリップ・オーギュストは彼なりの戦略を練って守りを固める、そのひとつの形がこの城壁に結晶したのだろう。

なにしろ、フランス歴史小説作家、佐藤賢一に言わせれば「綺麗事の平和に安住することない、小気味よいくらいの野心家」だったのだ。この、ある意味まっとうな野心は、当時の領民にとって「王」としてありがたい資質だっただろう。むやみに搾り取るより、生活圏を強化安定させて活性化させる方が互いの利益になると知っていたのだから。

学士院前の車をシャットアウトした木の橋、ポンデザールを渡る。ちょうど鉄の鎖でつながれていたこのあたりが、現在ではセーヌ観光のポイントになっている。シテ島西端のとがった三角形の緑地が突き出し、ポン・ヌフが両岸をつなぎ、その間を観光船の往き来する光景は見飽きることがない。

‥‥上流のトゥルネル橋を渡ったときもそうだった。目と鼻の先にシテ島を感じる。‥‥パリ発祥の地であり王宮のあるシテ島、セーヌ川の中州をめぐって西暦1200年の城壁は、パリの中心からいくらも離れていないのだ。

城壁の全長は5400メートルほどとあるから、単純に円周率で割れば直径ほぼ1800メートルの市街地、シテ島を中心に、これがフィリップ・オーギュストの守りたかったパリだったのかと感慨にとらわれる。

橋を渡った右岸、ルーヴル宮クール・カレへつながるファサードまでのあたりに、右岸側の城壁の起点であるコワンの塔はそびえていたはずだ。残念ながらその確定はできぬままクール・カレへ‥‥。

クール・カレ、四角い中庭に囲まれた一角は巨大なルーヴル宮の最東端に位置するが、その四角い中庭でも、とりわけ左手前4分の1のあたり、こここそフィリップ・オーギュストが城壁を築いた際、それに付随して造られた城砦の地だ。

その証拠にここの地下、言い換えれば現在のルーヴル美術館シュリー翼下部に当時の石壁が残されている。

ルーヴル宮の始まりはフィリップ・オーギュストの城壁に付属した城砦だった。それもほんのわずかな一角‥‥。それが時代と共に拡大し、変貌し、城砦から王宮へ、廃墟から皇帝の居城へ、庁舎から美術館へと性格を変え現在にいたっている。

ルーヴル美術館、クール・カレの地下にあたる場所。左手の石壁はフィリップ・オーギュストによる建造当時のままだという

パリというにとどまらずフランスそのものを象徴する建造物であることは誰もが認めるところだろう。

歴史は、些細な偶然から思いがけぬ展開を遂げる。それを含めて大きな必然の表れと感じ取れるときもある。フィリップ・オーギュストが先鞭をつけた、このルーヴル宮はどう位置づけられるだろう。

クール・カレをリヴォリ街方面に抜け、教会に沿ったオラトワール街を行くと、サントノレ街。パリ市から西部へと伸びる街道に設けられた市門サントノレ門はここにあった。

考えてみると、いや特に考えなくても、この城壁の市門のあったあたりは現在でも繁華街であり、それぞれの形で人びとが集まり、さまざまな想いや表現が交錯する場となっている。フィリップ・オーギュストの城壁跡は今や、文化の交叉点が鎖状の帯をなしていると言っていい。

‥‥サントノレ街を右に折れればすぐにルーヴル街との交叉点。ルーヴル街13番地が、この小さな旅の出発点だった。

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