最大の見せ場:フィリップ・オーギュストの城壁めぐり その5

キリスト教世界を揺るがす宗教改革運動に、旧勢力カトリック側も積極的な反撃で応じる。たとえばイエズス会の結成と海外布教活動は、結果的に遠く東の果ての島国にまでキリスト教の伝わる原動力となったのはご存じの通り。

この時代に建設されたサンポール・サンルイ教会は、教会前で市の中心部からの道が合流し、東へ向かう主要な街道サン・タントワーヌ街の始まる広場になっている。

1559年、史上有名な事件となった馬上槍試合の行われたのもここだった。王家の婚礼のめでたい席で、国王アンリ2世みずから槍を手に騎乗すると勇ましく模範試合を演ずるつもりが、誤って目を突かれ落命にいたる事態となったのだ。

後にノストラダムスの予言と結びつけられるこの事件は、宗教戦争を背景に、偶発的な事故がヴァロワ王家の衰亡とブルボン家の王位継承へと、歴史の歯車をまわすきっかけとなる。

「パリ歴史地図」(東京書籍)の図版より。今回の対象地は右の端から下へ、河岸まで

この事件の際にはもうすでにすっかり取り払われていただろうが、フィリップ・オーギュスト城壁のサン・タントワーヌ門もここにあった。

‥‥というわけで広場の雰囲気を充分に味わったなら、教会裏を目指そう。

回り道もいいけれど、教会の開いている時間ならせっかくだから正面から中に入ってみる。夏涼しく冬暖かく疲れたときにはひと休み、ステンドグラスや宗教画のある空間に身を置いて、ぼんやり夢想に耽るのもいい。帽子は取って、私語はなるべく慎むのは最低のマナー。今回は通り抜けるためだけだが‥‥。

祭壇に向かって左手にある出口を抜けるとパサージュ・サンポール。この抜け道がサン・ポール街にぶつかったら右折して、シャルルマーニュ街をまたまた右折。これで教会の裏手に出る。

‥‥このあたり、中世の街並みをそのまま感じさせる一角だ‥‥とつづりながら、宿題がまたまた増えていくのを覚える。いつかまた別の切り口でこの街区について歩き、語ってみたい。

‥‥ぼんやり中世の街並みを思い描きながら歩を進めていく‥‥。すると今回のテーマ、西暦1200年前後に建造された城壁の跡をたどる小さな旅のクライマクスはいきなり、現れる。

シャルルマーニュ高校グラウンドと街路の交わるところに、まず目に入るのは背後の壁に半ば埋もれながら聳える塔。その名もモンゴメリ塔と呼ばれるものだ。この名の由来は先ほどの1559年の馬上槍試合で、誤ってアンリ2世に落命させるほどの傷を負わせてしまった騎士。

いかに事故とは言え国王殺しというわけで、当時はもう廃墟になっていたこの塔に閉じ込められ、彼の名で呼ばれることになったのだとか。‥‥後にイングランドに逃れて新教徒軍のリーダーとなり、旧教側との戦いに敗れ、斬首される数奇な運命をたどったという。

ここからグラウンドに沿って、もうひとつ隣の塔までを含むから最低60メートル以上にわたる規模で、十字軍時代のフランス国王が築かせた城壁の跡が残っている‥‥。

パリはさまざまな貌#かお#を持つ。これもまた、封じ込められた過去が剝き出しに現れ出た貌のひとつなのだろう。それにしてもパリ近世近代の変転を思うとき、よくもこれだけの形を残したものだ。

リセアン、リセアンヌたちが800年の歴史を背景に、それとまるで無頓着に球技に興じているさまは、不思議にすがすがしくさえ映る。こうして、ゆったり超然とときを重ねていくのもいいのではないか、そんな気分になってくる。

グラウンド沿いのジャルダン・サンポール街を歩きながら、振り返ると壁の跡とグラウンドの向こうに、サンポール・サンルイ教会のドーム。シュールレアリスム絵画の空間に身を置いている気分になってくるのは、こういうときだ。

ジャルダン・サンポール街を抜けると、そこはもうセーヌ川、セルスタン河畔で、川を挟んでシテ島と並ぶもうひとつの中洲サン・ルイ島が見える。

右折してすぐ、セルスタン河岸30番地に「パリの歴史」碑がぽつんと立っている。サイトの記事をまとめるにあたって、特に書名や資料、引用文献などを書き留めていないところは、要所要所に立つこの碑を最大の拠り所にしている。

とりわけこの碑を掲げるのは、とても重要な内容を含んでいるからだ。かつて、この地にバルボー塔がそびえ立っていた。これはフィリップ・オーギュストの城壁、右岸の東端にあたる大きな塔だった。

城壁の元締めというだけではない。まさか壁で覆うわけにはいかぬセーヌ河を守る役目も果たしていた。重く太い鉄鎖をこの塔と、島にあったロリオの塔、さらに左岸のトゥルネルの塔に結びつけ、必要に応じて船の航行を遮断したのだ。

川底深く打ち込んである何本かの杭に筏#いかだ#を括りつけ、筏づたいに鎖を塔に結びつけたものらしい。

ただ、ここに記されたロリオの塔について現段階では調べがつかない。筆者の限界である。当時二つに分かれていた無人の中洲を、現在のサン・ルイ島にまとめるのはかなり後のことで、手許の資料類でははっきりしたイメージを結べないというのが正直なところだ。

二つの中洲の間は水路として利用されていたようだから、水路に面して鎖を固定する塔がひっそり立っていたという光景を想像してみるのだが‥‥。

ともかく、ここに鎖を結びつける形でパリのセーヌ川上流は守られていた。西側にあたる下流にもう一組の塔のセットのあることで、ようやく河の守りも万全となる。そちらは、この小さな旅の大団円あたりで登場するはずだ。

マリー橋を渡り、まっすぐサン・ルイ島を横断、トゥルネル橋を渡れば左岸。次回からは、左岸の探訪となる。

左岸の登り道:フィリップ・オーギュストの城壁めぐり その6 » 遊歩舎
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