中心軸を越えて:フィリップ・オーギュストの城壁めぐり その3

エティエンヌ・マルセル街とサン・ドニ街の交叉点

エティエンヌ・マルセル街、20番地をあとに東へ向かう。

まもなくサン・ドニ街。右手はレ・アルの駅方面、左手にしばらく歩けば威風堂々としたサン・ドニ門が見えてくる。しかし混同しないでいただきたい。あれはパリの市域が拡大してもうひと周り外側に造られた城壁、シャルル5世の壁(現在のグラン・ブルヴァール)にあって、フィリップ・オーギュストの壁の門とは違う。

それでは西暦1200当時の市門はどこにあったかといえば、この交叉点あたり。テュルビゴ街に向かったサン・ドニ街135番地のビルにプレートが貼ってあり、かつての門はここにあったと示されている。

このあたりではだいたいエティエンヌ・マルセル街に沿って壁は伸びていたと考えていいのだろう。つづいてセバストポール大通り。まっすぐ伸びた大通りを渡るとき、左手のずっと奥に東駅、右手はシテ島の裁判所を遠望できる。

「パリ歴史地図」(東京書籍)の図版より。今回の対象地は最上部から右へ下ったあたり

次のチェックポイントはサンテニャン館、マレ地区の現在ユダヤ芸術歴史博物館になっているところだが、そこまでの区間は今回の城壁めぐりのうち、具体的な「跡」のもっとも薄い箇所と言っていい。

‥‥城壁の残像を実際に目に出来ぬ以上、跡を見出すのではなく、視点を変えて、逆になぜこのあたりは跡が少ないのか考えてみることにしようか。あるはずのものがない理由を考えるのも、パリという物語の一端を読み取る契機になる。

エティエンヌ・マルセル街はオ・ウルス街と名を代え、サン・マルタン街と交わる。ここで左手を見るとまたまた、グラン・ブルヴァールのサン・マルタン門の方へと道がうねうねとつづいている。

これに対して、フィリップ・オーギュスト城壁のサン・マルタン門は2、3の資料によれば、このあたりにあったはずだ。と納得したらサン・マルタン街を右へ。少し街の中心部方向に向かい、今度はランビュトー街を左折する。

サン・マルタン街

ポンピドゥーセンターとその前の広場を眺めながら、少し整理してみよう。‥‥サン・ドニとサン・マルタン、共にグラン・ブルヴァールに象徴的な門の残るように、古くからの2本の街道が並行して北へ向かっている。その真ん中に道幅の広い直線的なセバストポール大通りが伸びていて、短い間隔で合計3本の通りを渡った‥‥。

2本の街道を中心にする街区は人口密度が高く、大革命以降しばしば反権力の民衆蜂起が起こり、バリケードの築かれた地だ。時どきの統治者にとって、いわば「扱いにくい」、うるさい連中の住み処だった。

19世紀も半ばを過ぎ、第二帝政時代に行われた知事オスマンによるパリ改造は、中世都市を近代都市へと生まれ変わらせるに充分な規模と内容を持っていた。2本の街道の中間にあるセバストポール大通りは、このとき造られたパリの新しい、南北を貫く軸でもあった。

交通網の整備、流通経路の刷新が主眼となっていたことは確かだ。しかし、それだけが目的なら別の形だって取れただろう。道幅の広い直線的な大路を新たにわざわざ造るより、たとえば2本の街道の道幅をひろげ、カーヴを減らすやり方だって、はるかに容易に考えられただろう。

だが、そうしなかった。ここにオスマンのもうひとつの意図が表れている。叛徒たちの街を大きな路によって分断すると同時に、一朝ことあるときにはただちに円滑にして能率的な軍事行動を起こせる、叛徒たちの鎮圧をただちに実施できる機能性。

街の軸にあたる部分をオスマンは徹底的にいじった。‥‥当たり前だが、中世の城壁の跡まで考えていられない。はっきり言ってどうでもよかった。そんなところだろう。

入館しなくても、中庭を見渡すのは可能

‥‥ポンピドゥーセンターと広場を横目にボーブール街を渡り、タンプル街を左に折れてすぐ、71番地がサンテニャン館。入り口脇に立つ「パリの歴史」碑によれば、1600年代半ばに建てられ紆余曲折を経て現在の博物館となった建物で、正面玄関を入ってすぐ、中庭に面する左手部分は城壁の遺構を利用しているとある。

これを確認したら再びランビュトー街に戻って、6番地に掲げられたプレートをご覧いただきたい。サンテニャン館正面のあたりにサンタヴォワ門ともタンプル門とも呼ばれた市門があり、このプレートのあたりで斜めにランビュトー街と交叉、アルシーヴ街のところに小規模な出入り口のあったことがうかがえる。

ランビュトー街はアルシーヴ街を渡るとフラン・ブルジョワ街と名をかえる。交叉点左には国立古文書館。ここもまた庭園を含めてゆっくり時を送りたいスポット。それでなくともこのあたり人通りの多い、見るべきものの多い街区に突入したわけだが、今回は禁欲、あくまで城壁の跡をたどることに徹する。

古文書館の斜め前にクレディ・ミュニシパル、これをどう日本語訳すればいいのか正直言って分からない。公営の大規模な質屋さんと考えれば実態に近いだろうと思う。これからお世話になる機会でもあればじっくり観察するつもりではあるけれど、ともかく1637年に起源を持つ機関で、ここの敷地内に城壁跡はある。

公共施設には普通、守衛さんがいるのでボンジュールと挨拶し来意を告げる。フランス語が出来なくとも「フィリップ・オーギュスト」とはっきり言えば、笑顔になるか面倒臭そうになるかは別として、質屋とは関係なく中に入れてくれる。

門を入ると噴水のある中庭。正面のプレートに「城壁はこの中庭を横切っていた」とあるが、まずはこの中庭につながる右手奥に出向いてみよう。そこから始める方が分かりやすい。

いちばん奥に何とも不可思議な形をした塔が立っている。この下部が、フィリップ・オーギュストの城壁オリジナルの塔部分で、上部は後世にそれを利用して造りあげたもの。切り取られた下部だけとはいえ、剝き出しの本物にやっとお目にかかれた満足感を味わおう。

この塔の部分から石畳になった地面を注目すると、二本の色の異なる並行する筋が引き出されている。これが城壁の跡を示しているので、この線をたどると、先刻の噴水のある中庭を横切っていることが分かる。

あるはずなのにないものを考えるのもいいけれど、あるはずのものが具体的に目の前にあるとなると、やはり気分は昂揚する。精神衛生上、こちらの方がいいに決まっている‥‥。

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