モンマルトル門あたり:フィリップ・オーギュストの城壁めぐり その2

ジュール街の由緒ありげな門

食堂「豚足亭」ことレストラン、オ・ピエ・ド・コションを覗き見ながら通り越したところで、コキィエール街をジュール街へ曲がる。

すぐ右側には、レ・アル地区のシンボルであるサン・トゥスタッシュ教会の大堂宇が横たわっている。現在のカタチになったのは後世のことだが、この地に礼拝堂がはじめて建てられたのは1213年と教会のパンフレットにはある。

城壁は1200年前後の完成だから、完成したばかりか、もしかしたらほとんど同時進行で、壁の内側ぎりぎり、食品市場に隣り合わせに造られたのがこの教会の起源ということになる。シテ島のノートルダム大聖堂も建設中だったのを考え合わせると、この時代には大きな建築ブームの波が押し寄せていたのかもしれない。

左手、商店が軒を並べる少し後ろに城壁はそびえ連らなっていたわけだから、ジュール街は壁に沿い、教会との間を縫う位置にあたる。

「パリ歴史地図」(東京書籍)の図版より。今回の対象地は画面最上部のあたり

背景を教会に、右手には由緒ありげな建物が並ぶ。ブルボン王朝時代の建物に、最新ファッションのメイカーが入っていたりする。‥‥やがてモンマルトル街にぶつかったら左折。

このあたり「豚足亭」だけでなく、数十年前まで巨大な食料市場と隣り合っていた街区だからこそ生まれた、その名残とでも言えそうな老舗がぽつりぽつり埋もれている。そういう店の探索もおもしろいけれど、くれぐれもモンマルトル街30番地を見逃さぬようにしよう。

2階の外壁に貼り付けてあるプレートは、なかなか見つけにくいうえ、風雨にさらされて読みにくいことこの上ない。しかし、フィリップ・オーギュストの城壁、モンマルトル門のあったことが示されていて、かつての街の痕跡をたどろうという者にとっては、やった! と叫びだしたくなる。

このプレートによって、ジュール街から出てきたところと、次のエティエンヌ・マルセル街との交叉点のちょうど中間点のあたりに市門の開いていたことが分かる。

「パリ歴史事典」(白水社)によれば、「十の市門が開かれていたらしい」とあり、モンマルトル門の名は挙がっていないので、本格的な市門と小規模な通用門があったということだろうか。

エティエンヌ・マルセル街との交叉点で右折。次のポイントであるエティエンヌ・マルセル街20番地へ、恐れ知らずのジャンことジャン無畏公の塔を目指す。

これは、フランス国王家が大きく二つの勢力に分裂していた1408年、一方の旗頭であるブルゴーニュ公家の、パリにおける本拠地であった館に建てられた塔。当時の最先端を行く高層住宅と考えていただければいい。高い建築物の上階に暮らすのは、権力者にとって勢力の誇示であり見張りの実用性と同時に純粋に快感でもあったのだろう。

その礎石部分に200年前に建設されたフィリップ・オーギュストの城壁を利用している。

これ自体とても見どころの多い高層建築で、中世史や建築史に興味のある方には心ゆくまで見学することをオススメする。なにしろ現存する最古のトイレ、シャワー室まであるのだ。

しかし今回は時代が錯綜してくるので、ブルゴーニュ公については措いて、あくまでフィリップ・オーギュストの城壁の築かれた時代1200年前後と、パリをめぐる状況に集中することにする。

われらが列島では源平合戦の末、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃。東国の武士たちが威勢よく振る舞う分、西の知識人たちは鴨長明「方丈記」のように無常観に浸っていた。そんな時代のヨーロッパでは十字軍がキイワードとなる。

イスラム世界の拡大に対して、ローマ教皇はキリスト教の聖地奪回を呼びかけキリスト教の諸国王、諸侯、騎士団などが参戦。と記せばいちおうもっともらしい、実際そのつもりだった敬虔なキリスト教信徒も多くいただろう。

いかにそうであっても、客観的には当時の文明先進地域であったイスラム、オリエント地域に、野蛮人たちが大挙して押し寄せての略奪行動、せいぜい山賊か海賊に毛の生えたものとしか映らなかっただろう、そんな程度のものだった。

聖地奪回などとっくに忘れ果て、いかに進んだ中東世界の文物を頂戴するか、富のご相伴にあずかるか、知の蓄積を学び取るか、イタリアの商業都市はじめ大いなる利益を享受した者と権威を失墜した者、支配層のうちの勢力関係が微妙に変化するきっかけとなり、後代のルネッサンスへとつながってもいった。

いわば中世社会の転換期にあったとも言えそうだが、こうして少し歴史を振り返ると、いつの時代のどこを切り取っても、人間というのはホントにゆっくり落ち着いてなどいない。いつでもなにかしらざわざわ蠢いているものなのだ。

オリエントに出掛けてひと働き、キリスト教徒の神聖な名のもとに、なにやらお宝、財宝をせしめてこようではないか。一旗揚げるいいチャンスだという出兵ブームのうちにあって、今こそ我が領地に堅牢な城壁を築き守りを固めようと考えるのは、かなりユニークなタイプであったかもしれない。

もっとも当時は国王といえども、直接に領有しているのはせいぜい戦国大名程度のもの、セーヌの下流は船使いに長けた勇壮なノルマン人の支配地で、たびたびセーヌを上ってはパリにちょっかいを出してきていたから、そうそうのんびりもしていられないという事情もあった。

いやはや、いつの時代もどこの世界もそれほど楽ではないのである。

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