パリ1区、サントノレ街との交叉点からルーヴル街を少し北上した左側13番地から始める。
かつての城壁跡をひとめぐりしようという試みだから、どこから始めてどちらへ向かおうと結局一周してスタート地点に戻ってくる。交通の便と分かりやすさを考慮して、ここから時計回りに歩くことにする。
よほど物好きでなければ立ち止まらない、目に映ることすらないかもしれない。なにしろ西暦1200年前後に造られた城壁の、飛び飛びに残った跡を街並みの中からピックアップし、それを繫げて歩いてみようというのだから。

パリは紀元前後の頃、セーヌの中洲シテ島に出来た集落が次第次第に膨張、拡張してきた都市だ。シテ島を芯に、大きく膨らんだリンゴのイメージ。
シテ島だけがパリだった時代から1200年を経て、本格的に巡らされた城壁はパリの広がりようを示す証人でもある。この時代にここまでパリとして囲い込まれたのだとつくづく思う。
全長約5400メートルというから、それほど無茶な距離ではない。歩くだけなら2時間。なにより現在のほぼ都心部を周るから見どころも多く、いろいろ寄り道しながら何日間か掛けたいコースでもある。
というわけで、ルーヴル街13番地の遺跡写真をご覧いただきたい。丸い窪みのある煉瓦の積み重なり。通行人や周囲の建物と比較するとその高さを実感していただけるだろう。
これは城壁のどの部分なのか、というと‥‥城壁の塔のひとつの遺跡であると表示されている。「パリ歴史事典」(白水社)によれば、城壁には60メートル間隔で塔が設けられていたという。
当時の一般的な武器、大弓の射程距離は30メートルから40メートルだったそうだから、隣り合った塔から射手が矢を放てば、どこから敵が押し寄せようと食い止められる計算になる。
すぐ北左手はカフェのテラス席のひろがる2エキュ広場。右手は通りの向こうに穀物取引所の建物が目を惹く。このあたり工事中(2019年4月現在)になっているが、美術館としてリニューアル、一般公開される予定だと聞いた。
ルーヴル街をもう少し北へ向かい、コキィエール街を右へ、旧穀物取引所を回りこむ形で。旧穀物取引所から広がる緑地にかつてのレ・アル、巨大な食品市場が軒を並べていた。
コキィエール街10番地のあたりに、20世紀初頭まで城壁の一部が残っていたと堀井敏夫「パリ史の裏通り」にあるから、ルーヴル街13番地からここを結ぶ線が城壁だったわけだ。
ここで押さえておきたいのは、市場の出来たのは1100年代半ばだから、数十年後にこの市場をパリの市域内部に取り込む形で城壁は造られたということ。
パリの人口増大と共に規模は拡大し、19世紀には「パリの胃袋」と呼ばれるにいたった市場は、1960年代に郊外に移転するまで、食の流通の中枢だった。
城壁の一部が残っていたとされるコキィエール街、その6番地には24時間営業年中無休を売り物にしている有名なレストラン「オ・ピエ・ド・コション」がある。日本語にすれば「豚足亭」。
牡蠣はじめ新鮮な魚介類まで守備範囲は広いが、開店以来の名物料理と言えば店名の表すように豚足料理。ゼラチンたっぷりでなかなか美味いものではあるが、その迫力そのボリュームに圧倒される。
‥‥と、このレストランについて記したのには理由#わけ#がある。緑地となって今や影も形もない市場。穀物、野菜、果物、肉、魚介類、乾物‥‥かつてパリに暮らす人びとの胃袋を満たす食品の集まってきた市場の活気と仕事ぶりを、この場所で感じ取れる気がするからだ。
運び込み、集め、選り分け、セリがなされ、それぞれ市内各地に散っていく。近在の農民、運搬業者、仲買人、小売商、市場運営者をはじめ、どれほど多くの人びとがここに出入りし、かかわっていたことだろう。24時間営業年中無休は、ここに働く者たちにとってありがたい営業形態であっただろう。
そしてボリュームのある料理。肉体労働に従事した、腹ぺこの者たちにぴったりではないか。トラック一杯に積んだじゃが芋と玉葱を運び入れ、ほっと豚足にかぶりつくお百姓。セリを前に打ち合わせに余念のないチーズの仲買人たち。その向こうには、もうひと稼ぎと客選びしながら鶏肉を頰張っている街娼のねえさんたちの姿も‥‥。
市場をたい焼きにたとえれば、オ・ピエ・ド・コションはたい焼きの型のようなものではないだろうか。たい焼きはなくなっても、たい焼きの型は残っている。
たい焼きの型からたい焼きを夢想する、妄想する。これもまた遊歩する者の無上の喜びなのだ。