モンマルトルの丘には、19世紀半ば、パリ市に編入された当時の表情が残り香のように漂う。
とりわけ北側の斜面、ソール街とサン・ヴァンサン街の交叉するあたりの坂道、墓地の石塀、向かいにアカシアの木陰にシャンソン酒場ラパン・アジルのひなびた姿、狭い石畳の路のつづく葡萄畑の下にたたずむとき。
周囲を見回し、ここはどこなのだろう、どこに入り込んでしまったのだろうと感じる。都市のような村落のような、境い目と呼ぶのがふさわしいような。
19世紀から20世紀初頭、この土地に吸い寄せられた多くの芸術家とそのタマゴたち。彼らの中にあって、シュザンヌ・ヴァラドンは土地の精霊のように映ったに違いない。
食うや食わずでモンマルトルに棲み着いたシュザンヌは、10代になったばかりから職を転々、憧れのサーカスに入団したのも束の間、ブランコから落ちて負傷、あえなく挫折する。
画家たちのモデルとなり、彼らの創造力の源泉ともなれば実際生活上の愛情の対象ともなる。ルノワール、ロートレックはじめ一流の才能と交流・交際。ブルジョワ道徳から言えば、「ふしだら」な「あばずれ」と後ろ指指されるものだっただろう。
モンマルトルの芸術ボエーム世界だからこそ生き抜けた、そしてなにより花開くだけの才能と強靭な精神力を持っていた‥‥。
画家たちのモデルになっているとき、彼らから学ぶ。見詰められ観察されながら、逆に彼らを見詰め観察して、絵画という表現手段に目覚めていく。描かれる対象となりながら、描く者から学び取る。画家シュザンヌ・ヴァラドンの誕生だった。

1883年、18歳の彼女は父親の分からぬ子を生む。この息子が生涯モンマルトルの丘の光景を描きつづけたモーリス・ユトリロだから、親子二代にわたる正真正銘、骨の髄まで芸術ボエームとして生きた。これは生半可なことではない。
エドガー・ドガに認められ、画家として大成していく自由奔放な母は、息子の画才についてはからきし無自覚だったというエピソードも残っている。恋多き彼女が最終的な伴侶としたのは息子の友人だったというのも、この親子関係を考えるうえでは興味深い。
アルコールに溺れた息子は、おぼつかぬ意識に濁った視界の晴れわたる奇跡的な一瞬に、モンマルトルの風景を切り取り、彼の絵の特色である白色を重ねていったのだろうか。

そんなふたりの暮らしたのが、現在のモンマルトル博物館の地。葡萄畑の斜面のすぐ上、コルト街12番地は、ものものしく構えた印象を与える「博物館」と呼ぶには抵抗を覚えるほど、リラックスした気分になれる場だ。
親子の暮らした部屋も再現されている。常設展示では、モンマルトルという場の持つ重層性‥‥牧歌的な表情と民衆的なダイナミズムを併せ持つ、民衆反乱の拠点であり、若い芸術家たちの切磋琢磨の場であり、頽廃と倦怠の渦巻く歓楽街でもあった丘の歴史が、豊富な資料で示されている。

コミューヌの闘い、バリケードから伝説的なキャバレ「黒猫」、フレンチ・カンカンの狂躁に及ぶ展示はそれぞれ見応え充分で、時の経過を忘れる。しかしここは屋外の空間を楽しむ場所でもある。葡萄畑を眼下に見降ろし、丘の北斜面からパリ郊外に発展する遠景を見通すのもいい。
そしてなんと言っても庭。シュザンヌ・ヴァラドンの暮らした時代、ここに人びとは集まり、戸外で食べ飲み語り笑い踊るひとときを送ったのだろう。ルノワールの「ブランコ」はそんな楽しげな会話の聞こえてきそうな画面で、このとき描かれたブランコは今でも庭の隅に残されている。
モンマルトルの丘に暮らし、芸術家として大きく成長していった者は数知れない。彼らの多くはここで育ち、個人としてあらたな挑戦と展開の必要性を感じ取ったとき、丘を降りていった。

芸術家として力の限界を悟ったり、安定した家庭や職業を見出し、郷里からの呼びかけに応じた者たちも、身を持ち崩してトラブルに巻き込まれたり病いに冒された者たちも、同じように丘を降りていった。
1913年、ピカソがモンマルトルを離れ、モンパルナスに移る。彼の友人たちの多くもこの波に乗る。以降、時代を領導する芸術家たちの中心はモンパルナスに移る。それでもシュザンヌ・ヴァラドンとモーリス・ユトリロの親子は、モンマルトルの丘から離れることはなかった。
丘にのぼる正面玄関、ケーブルカー駅のある広場には彼女の名が冠されている。この丘の住民たちすべてを代表する、表札ででもあるかのように。