
モンマルトルの丘のいただきには、ふたつの教会が並んでいる。
ひとつはモンマルトルにとどまらず、パリ全体を代表するランドマークとさえなっているサクレクールの大聖堂。巨大なつくしん坊にも、教皇の帽子の形にも見える巨大な建築物は、今やもっとも知名度の高い教会のひとつだ。
1876年に着工され1914年に完成した、この「現代建築」と並べば、どうしても地味な存在に映ってしまうのがサン・ピエール教会。パリに編入される以前のモンマルトル村の中心に位置する、村の教会といった趣が漂う。
それでも、‥‥特定の信仰など持たぬ、キリスト教とは無縁な者にでも、空気そのものに漂う凛とした静けさは感じ取ることが出来る。サクレクールの後に訪れると、余計にはっきり分かる。祈りの場として本物はどちらであるか、が。

決して目立つ教会ではないけれど、ここには時を経て多くの人びとの祈りが降り積もり、熟成し、結晶しているようだ。その祈りの厚みとでも呼ぶべきものに対峙するとき、自然に謙虚な気持ちになっている。
歴史は紀元5世紀にさかのぼる。このとき異教徒たちの祈りの場であったところに、キリスト教の教会が作られたと記録にある。宗教が替わり祈る対象は代わっても、祈る気持ちに変わりはない。人びとは古来この場で祈りを捧げてきた。
12世紀、修道院施設の一部として再建された教会は、今に残るパリの宗教建築の中でも、もっとも歴史あるもののひとつだという。大革命でこの地の修道院の廃止された後も、かろうじて残されたのがこの教会だった。
特別にそんな知識などなくとも、気持ちをしずめ、ゆるやかに扉を開くだけで伝わってくるものがある。大きな空間に開かれていく自分を感じる、これは決して大袈裟な表現ではない。
一方広々と明るい、モザイクで飾り立てられた巨大な「現代建築」は1873年、共和国の国民会議で建立が決議された。いわく付きのものでもある。
普仏戦争、パリ・コミューヌの混乱を経てスタートしたものの、第三共和制の政権としての求心力はきわめて弱い。民衆の血にまみれて共和制を名乗りながら、その中心メンバーにしてからが本当に共和主義者なのかどうかすら疑わしい。
オルレアン王家を支えた王党派官僚もいれば、あっさりプロシアに敗れ捕虜となった「帝国」軍人たちも、口を拭って澄ました顔をして、とりあえずは共和主義を口にする。
政権と市民、パリと地方、ブルジョワと労働者、互いに深い不信の溝がうがたれていた。国内秩序は乱れ、分裂していた。こういう時代状況を背景に、国民の融和を図りたい、図らねばならない。帝国主義時代に突入した対外情勢を考慮すれば一刻の猶予も許されない。‥‥分からなくはない。
しかし、それを選りに選ってローマ教皇の権威を借り、キリスト教大聖堂を建造することによってなそうとは‥‥。当時の国民議会多数派が何者であったか、その馬脚をあらわしているとも言える。「共和国」の使命の柱のひとつに、なにより政教分離があったはずだから。
事実、オピニオンリーダーだった作家のエミール・ゾラは、長篇小説「パリ」で登場人物の口を借りながら、この欺瞞と偽善について舌鋒鋭く批判を加えている。
普仏戦争直後に決議され第一次世界大戦の年に完成されたというタイミングひとつとってみても、国家統合のシンボルとしてのきな臭さ生臭さを負わされた建造物であったことは疑いない。
‥‥個人的な好悪で言えば、権威的な押し付けがましさは悪趣味、醜悪なものと映る。そのくせ、ユトリロの絵画に出てこなければ物足りない。シャルル・ド・ゴール空港からパリに向かうとき、その姿が見えてくるだけでパリに帰ってきた、とほっとひと息つくのも確かだ。
想いは千々に乱れ、複雑。悩ましいというしかない。