足まかせに歩いているつもりが、気がつけばいつの間にか同じ道をまた歩いている。そんな体験はどなたもお持ちのことと思う。グラン・ゾーギュスタン街はそういう通りのひとつだ。
サン・ミシェルの橋からセーヌ左岸をぶらぶら。昼下がり、暖かい陽射しなら、ブキニストを覗きながら歩くに最高のロケーションだ。今やこのあたりに掘り出し物はない、というのが定説になってはいる。
それでも19世紀に発行された新聞など、無造作に並べられていたりするからたまらない。セーヌに沿って並ぶ古本の露天商、流れの向こうに見えるのはシテ島オルフェーヴル河岸、泣く子も黙るパリ警視庁。メグレ警視がパイプを咥え、窓からぼんやりこちらを眺めていそうな気になる。
と、左側に由緒ありげな建物。18世紀半ばには営業していた、ということはフランス革命時にも営業していたのか、なんだか気の遠くなりそうなレストラン、ラペルーズ。個室や秘密の通路があったりして、さぞやさまざまな物語の舞台に違いない。
それにしても現在ここを利用するような客はいかなるタイプで、いかなる料理が供されるのだろう。‥‥などと開店前の内側を覗きつつ、建物に沿って曲がってしまうと、そこがグラン・ゾーギュスタン街。
なんのことはない。この通りに導かれるのは、河岸の通りとの角に位置するレストラン、そこに吸い寄せられた好奇心のせいだったとあっさり判明する。
セーヌを背にして右側8番地、ポン・ドゥ・ロディ街との角にお洒落なお店が目につく。その壁に彫り込まれた文章には‥‥。
アンリ4世が、狂信的なカトリック教徒に暗殺されたのは1610年5月14日、この日ルイ13世は8歳で即位したことになる。
当時、この界隈は修道院の所領だったそうだから、その施設だったのだろうか。ルイ13世即位の地というだけで歴史好きには感ずるところ大だが、ここはもっとマニアックな好事家を唸らせる遺跡でもある。
隣の10番地との境あたり、柄の長いスコップのような形をした彫り込みが残っている。これは蠟燭に代わって18世紀末に採用された街路照明、19世紀にガス灯の登場するまで用いられたオイルランプ用装置の設置されていた跡なのだそうだ。
とここまで確かめると、ふっと満足して再び歩を進めることになる。‥‥それが人間心理というもの。実際、こうして幾度このまま歩き始め、そのまま行き過ぎたことか。
しかし、ここで踵〔きびす〕を返して左側7番地の方を眺めると、さらにびっくりすることになる。ここに貼られたプレートには次のように書き込まれている。
パブロ・ピカソがこの建物に1936年から1955年まで暮らした。1937年「ゲルニカ」の描かれたのは、このアトリエにおいてだった。ここはまたバルザックの小説「知られざる傑作」の舞台である。
しばし打ちのめされ、立ち尽くす。
17世紀はじめ父親を殺され、急遽少年が即位することになった目と鼻の先で、後年、天才画家がファシストの悪逆非道な殺戮に憤り、怒りのエネルギーで20世紀を代表する大作を一挙に描きあげてしまうことになろうとは。
‥‥パリの街を歩くとは、こういうことなのだ。バルザックが作品の構想を練りながら歩いていたとき、街路を照らしていたのはオイルランプだっただろうか。
13番地サヴォワ街との角には、1854年創業の紅茶専門店マリアージュフレールの店舗がある。パリ市内に何店舗かあり、日本にも多くの支店を持つ店はあえて採り上げるまでもないのかもしれない。しかし、この落ち着いた町並みに溶け込むように開いている店は、なんともいい雰囲気だ。
珈琲党ではあるけれど、香り豊かなアールグレイを時折無性に味わいたくなる。この店の前を通るたび、何年も前に東京から届いた手紙を思い出す。
人生のある時期を共に送った敬愛すべき友人は、手紙の中で書いていた。‥‥家人の目覚める時刻よりはるかに早く目を覚ましてしまったときには、思い切って寝床から這い出す。
湯を沸かし、たっぷりの葉でとっておきのアールグレイを淹れる。信じられぬ静けさのなか、自分の暮らす居間を別の場所のようにも感じながら、ひとりくつろぐ。夜明けにはまだ間がある。身体のすみずみに深い香りと味わいが沁み込んでいく‥‥。
何があろうと贅沢なひとときを感じ取れる、感受性の豊かさに励まされる想いがした。この街で、その豊かさを想い起こす。
それほど長くない通りはサンタンドレ・デザール街に突きあたり、右に曲がればビュシィ、左に曲がればサン・ミシェルのいずれも繁華街に通じる。
その丁字路、日暮れ時の寒空に、リュートの奏者ひとり。通行人が多いわけでもない、特に立ち止まって聞き入る者がいるわけでもない。
一期一会。はかない音のつらなりは一期一会。幾度歩こうと、幾度思い出そうと一期一会。だからまた、迷いこんだようにこの通りを歩き抜けることになる。
家に帰ったらアールグレイを飲もう‥‥。