モンソー公園は廃墟のかおり

数ある公園、緑地のうちでも、滞在・居住邦人にとってもっとも馴染み深いひとつに、モンソー公園があがると思う。

なにしろ凱旋門から日本大使館のあるオッシュ大通りの突き当たり、クールセル大通り沿い。書類や証明書を大使館に取りに来て、なんとなくその帰りに足を向けて、というパターンになるからだ。

このパターンを繰り返すうち、モンソー公園に親しみを覚え、ここならではの魅力とは何だろう、などと漠然と考え始める。‥‥そしてある日、コンセプトの重層性に思いいたる。

長い歴史を誇るこの公園は幾度も作り替えられ、作り替えられるにあたって、それ以前の姿を取り払ってしまうのではなく、新たな要素が重ねられてきた。

ここをどういう場にしたいか、その基本的な想いが幾度となく手直しされ、重層性を帯びる。‥‥要するになんでもあり、なのだ。雑多な混沌に陥るところ、時の作用で柔らかに溶け合った印象を与えるようになったとでも言えばいいか‥‥。

大革命以前、パリ周縁部にあたるこの地を所有していたオルレアン家は、庭園として整備しようと考え「幻想の国」をテーマにしたそうだ。

廃墟趣味と呼ぶのがふさわしい古代遺跡のオブジェが散らばり、古代ローマの海戦場を模したという池とエンタシスの滅びゆく光景は、さながらユベール・ロベールの絵画から切り取ってきたかのようだ。これがまず基本にある。

人工的幾何学的なフランス風庭園からイギリス風庭園へと時代の好尚が移ると、自然林の趣を求めて樹木を植え込む。樹齢を重ねた木々も多く、プラタナスの大木など見応えがある。

大革命の直前、パリ市内に組み込まれると新たな城壁が作られた。外敵に対するより、むしろ入市税を徴収するためと評判の悪かった、その名も「徴税請負人の壁」。パリの市域がさらに拡大した1860年には撤去され、その跡はクールセル大通りとなった。

モンソー公園北側のクールセル大通りに面した門のところには、このときの徴税事務所の建物が残っている。ヴィレット、ダンフェール・ロシュローなどいくつか残ったもののひとつで、今ではすっかりモンソー公園のシンボルになっている。

革命と政変のたび、国有地となったりオルレアン家の所領に戻ったりとジグザグした後、19世紀半ば以降、第二帝政の許で最終的に国有地となり、公共に向けた公園としての地位が確定することになる。

以後ミュッセ、モーパッサンはじめ19世紀の文学者、芸術家の像が置かれ、模倣された廃墟やプラタナスの大木と同居している。日仏親善に1982年の革命記念日、東京都鈴木知事からパリ、シラク市長に贈られた江戸期の石灯籠まで、その中にまぎれこんでいる‥‥。

ところで、ここを訪れる者は誰でも黄金に光る門の、威圧的でもあれば荘厳でもある美しさに目を奪われるだろう。クールセル大通りに面した北側の門以外の東西南三方に設けられた門は、それぞれ二重になっている‥‥。

これは第二帝政下、完全に経済政策を掌中のものとしたブルジョワによる都市再開発の方策を示す、典型的な事例のひとつを示している。この地区の開発に乗り出した事業家ペレール兄弟の柔軟な発想力、言い換えれば山師的構想力が遺憾なく発揮されているからだ。

事業家イコール無限の資金を投入できる絶対君主ではない。あくまで政府のお墨付きを手にしたデベロッパーに過ぎない。ならば、どうやって資金をひねり出すか‥‥。

そこで考え出されたのが分譲だった。‥‥本来の公園敷地の外周から内に、少しずつ用地を削りとる。少し狭くなった内側の新たな公園敷地も柵で覆い門を作ると、本来の外周と新たな外周に二重の門が出現し、この門に挟まれた土地を分譲して売り出すことにする。

これが大当たりだった。本来の公園の内にあって、新たに整備された公園に接している。荘重な二重の門に仕切られた稀少価値、これは大いに受けた。

お墨付きを与えられた、限りある物件を我が物にするという満足感は金満家の所有欲をくすぐる。いやがうえにも高価で売買されることになる。

価値があるから高価、というより高価だから価値がある。明らかにここでは「倒錯」が起こっていた。投機の対象という点からも、今に至る「超」のつく高級住宅地はこうして生まれた。ペレール兄弟の読みは見事というしかない‥‥。

さてモンソー公園散歩は、ニシム・ド・カモンド美術館を覗くことで締めとしたい。なにしろ限りある分譲地にある邸宅のひとつがそのまま美術館になっていて、19世紀末からベル・エポック期にかけての大ブルジョワ、銀行家の暮らしぶりが示されているのだから。

それは作り物の廃墟ではなく、19世紀末金融資本家の生活していた本物の廃墟と呼んでいい。

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