マロニエの咲きそめる春、開放感に浮き立つ初夏はもちろん、熱い陽射しに閑散と物憂げな真夏も、重い雲に覆われくすんだ秋の夕方でも、積もった雪に足をすべらせ凍えて歩く冬の一日であってさえ。
パリ市内北部の小高い丘。これがさまざまな表情とエピソードを宿している。その折々に触れ素顔を楽しみたいが、モンマルトルと呼ばれる範囲は結構広く、とりとめない。「丘」と「麓(ふもと)」となんとなく分けて語られることも含め、なかなか悩ましい。
‥‥などと悩んでいても始まらないので、この際えいやっと直感的に切り分けてしまうことにする。
北西の頂点をメトロのギ・モケ駅として、北はシャンピオネ街、18区区役所のあるオルドネ街の線。東はバルベス大通り、フォーブール・ポワソニエール街。西はギ・モケ駅からクリシー大通り、アムステルダム街、そして南はサンラザール街、シャトーダン街、ラファイエット街。
以上に囲まれた地域。18区の南西部および9区の北部およそ3分の2を占める地域、現在モンマルトルと意識されているのは、おおよそこの範囲ではないか。そして18区部分を「丘」、9区部分を「麓」と考える。‥‥繰り返すようだが、これはあくまで一応の目安であることをあらためてことわっておく。
歴史的にも文化的にも住民心理的にも、漠然と、しかし明らかに異なるものがそこにはある。現在の行政区画でも18区と9区、異なる区に分かれているのは、意味のないことではない。
なにしろ1860年まで「丘」と「麓」は「徴税請負人の壁」と呼ばれる、文字通り市壁によって分けられていたのだから。パリ市の拡大でこの市壁が取り除かれるまで、「麓」は市内、「丘」はパリ市に接する郊外だった。
力を蓄えてきたブルジョワが19世紀に入って、次第に歴史舞台の主導権を振るうようになると、経済的商業的拠点のひとつ、グラン・ブルヴァール街区に隣接する「麓」も大きな変貌を遂げる。
開発の波が押し寄せたのだ。
宅地造成の進む「麓」には、ここを棲み家とすべく人びとが集まってくる。集まってきた人びとのうち、ここがモンマルトルという独特の光彩を放つようになるのは、とりわけふたつの「種族」の割合が高かったからだという。
ひとつは無名有名にかかわらず多くの芸術家たち。演劇人、詩人、小説家、画家、音楽家、批評家‥‥。そしてもうひとつは娼婦たち。
ふたつの種族を物語る、それぞれの象徴的な場を歩いてみよう。
ロマン主義生活美術館。オランダ生まれの画家、アンリ・シェフェールの家だったところで、「麓」に暮らす文学者や芸術家が集まった。それがそのまま小さな美術館になった。
ドラクロワやリスト、ツルゲーネフなど錚々たるメンバーの現れる社交の場に、常連として頻繁に出入りしたのはジョルジュ・サンドとショパンのカップルだった。ふたりにまつわる品々が置かれ、当時のブルジョワ風サロンの雰囲気と彼らの趣味嗜好を味わうには持って来いの場所だ。
一方、さすがに当時の娼婦たちについて、ここに集ったという記念館までは寡聞にして知らないけれど、小説はじめ多くの作品や文献に、その生態はとどめられている。ノートルダム・ロレット教会の裏あたりに住み着いたことから彼女たちはロレットと呼ばれた、とか‥‥。
とりわけ現在のメトロ、サン・ジョルジュ駅近くピガール広場方面に抜けるアンリ・モニエ街のあたりには多く住んでいたとある。ブルジョワに囲われた女性が多かったのだろうか。いま通りかかっても、白粉のにおいが漂うわけではない。瀟洒なたたずまいの、ごくごく普通の通りだ。
宅地化の進む「麓」に対して、風車がまわり葡萄畑のひろがる「丘」はまだまだ牧歌的な風景を宿し、週末や休日にはパリ市民の息抜き、ピクニックに訪れる場でもあった。
ルノワールの絵でお馴染みの「ムーラン・ドゥ・ラ・ガレット」は、今でも名前の由来となった風車だけが残されている。当時ここはガンゲットと呼ばれる、木立ちのある屋外で飲んだり食べたりしながらダンスを楽しめる場所のひとつだった。ルノワールの絵からは若い男女の華やいだお喋りの声まで聞こえてきそうだ。
やがて城壁は取り払われると、ブルヴァール(大通り)として整備される。クリシー広場からマルティール街との交叉点までがクリシー大通り、ここからバルベス大通りと交叉するところまでロシュシュアール大通りと命名され、パリを代表する繁華街、歓楽街を形成していくことになる。
大通りを挟んで、「麓」と「丘」と。19世紀、「麓」に集まっていた芸術家たちは比較的裕福な階層に属する者が多かったのに対し、20世紀の初頭、「丘」には若い貧しい芸術家たちのコロニーが生まれることになる。