モンマルトル。パリ北部の小高い丘とその麓は、さまざまな歴史の場面に組み込まれ、結びつけられている。
そのうちもっとも古いもののひとつは、サン・ドニ伝説。3世紀パリの司教だった彼は、キリスト教改宗に積極的に取り組んだため異教徒たちの怒りを買い、西暦250年頃モンマルトルの丘の上で首を斬られたとされる。
モンマルトルの語源は、これにちなむ「殉教者の丘」なのだそう。
サン・ドニは斬り落とされた自らの首を拾うと北に向かって歩き、命尽きたところが現在のサン・ドニ大聖堂となり、歴代フランス国王の墓所になったという。
いくらカトリックに無知な者でも、教会に居並ぶ聖人像のうちサン・ドニはすぐに見分けがつく。なにしろ斬り取られた首を抱えて立っているのは、まず彼だけだから。
その古代的な伝承を刻みつけるかのように、丘の麓から中腹までつづく文字通り「殉教者の道」、マルティール街がある。
パリ9区のほぼ中央、ノートルダム・ド・ロレット教会の裏でいくつもの街路が複雑に交叉している。ゆるやかな上り坂となって北方の丘方向へ伸びていくのは2本。マルティール街は、教会を背にして右側の街だ。
だらだら坂になった商店街には、独特の表情が宿る。何故なのかは分からない。京都の清水坂や、東京の神楽坂にしても、これが平坦な土地にひろがる商店街だったら風情も味わいも半減するだろう。
マルティール街にしても同じ。肉屋、パン屋、八百屋、どこででも見かけるような商店街であっても、坂道になっていることで情趣を漂わせる。まして19世紀半ば、この街を歩いていた多くの芸術家たちに想いを馳せると、街はさらに彩りを増してくる。

たとえば9番地には、第二帝政期の芸術家たちの溜まり場として有名な「ブラスリ・デ・マルティール」があった。芸術家志向の貧しい青年たちのライフスタイル、ラ・ボエーム(ボヘミアン)発祥の地とも言われるこのブラスリ(ビアホール)は、近代文学の革命児ボードレールが出入りしていたことでも知られる。
シネ・ノワールの映画俳優としてなくてはならぬキャラクターだったリノ・ヴァンチュラの名をつけた広場を越えると、街は次第に歓楽街のざわめきを帯びる。そのクライマックスがブルヴァール(外郭大通り)と交叉するあたり。
1980年代、はじめて観光目的でパリを訪れたとき、旅行社のコンダクターから、夜の一人歩きはご遠慮くださいと念を押された街区のひとつだ。
この大通りは1860年まで「徴税請負人の壁」だったところ。パリの市域が拡大し、城壁がさらに外側に設けられると、不要になった跡地は大通りとして整備され、パリ屈指の歓楽街、繁華街となった。
すぐ左手ピガール広場へとつながるブルヴァール、クリシー大通りはマルティール街との交叉点で、ロシュシュアール大通りと名を変える。この交叉点南東かどには1875年から1963年まで常設のサーカス小屋(小屋といっても、規模の大きな劇場のような施設)、シルク・フェルナンドがあった。
エンタテインメントとして人気を博していたのは、印象派、野獣派はじめ多くの画家たちが好んで画題としていたことでもよく分かる。その、一世紀近くも人びとを集めた見世物の場が、今やスーパーマーケットとなっているのも感慨深い。
‥‥大通りを渡ると9区から18区へ、モンマルトルの麓(ふもと)から丘へ、1860年パリ市に編入された、かつてのモンマルトル「村」に入り込むことになる。
大通り近く75番地には、ロートレックのポスターで有名なカフェ・コンセール「ディヴァン・ジャポネ」があった。呑みながらシャンソンを聞く店、シャンソニエと言ったところだろうか。名歌手イヴェット・ギルベールの出演を売り物にしていた。
それにしても店名の由来は気になるところ。直訳すれば「日本の長椅子」。‥‥床几(しょうぎ)のことだろうか。どんな由来があったのだろう。このへん手許の資料では確定できなかったが、19世紀世紀末にジャポニスム、日本趣味の流行した証拠であることは間違いない。
次第に坂道の勾配が急になってくると、観光者の姿が目立つようになり、小洒落たレストランや小物雑貨、みやげ物を扱う店も増えてくる。昔からの住民と世界中から集まってきた観光者と。その混ざり具合をおもしろいと感じていると、そこはもう丘の中腹だ。
左に向かえばメトロの駅のあるアベスの広場、右に折れて階段をのぼれば、モンマルトル村の中心、テルトル広場。‥‥マルティール街はラ・ヴュヴィル街にぶつかるところまで。
喉の渇きを覚える。‥‥手頃なカフェはいくらでもある。喉を潤しながら丘の中腹の表情を眺め、とりとめもなく殉教者について想いをめぐらすのも悪くない。
なにもサン・ドニだけが殉教者というわけではない、ボードレールにしても、ロートレックにしても‥‥。