あらかじめ失われた街、サンジェルマンデプレ

1925年アムステルダムに生まれたエルスケンは、吹き流されるようにサンジェルマンデプレに住み着いた。サンジェルマンデプレを舞台にサンジェルマンデプレの若者たちを写し、「セーヌ左岸の恋」にまとめたのは1954年のことだった。

尖んがっているくせにシャイ、傷つきやすいから攻撃的、才能豊かなひねくれ者のボリス・ヴィアンが「墓に唾をかけろ」でひと悶着起こし、ジャズ・トランペットを吹いていたのも1950年代のサンジェルマンデプレだった。

1950年代のサンジェルマンデプレに、伝説は事欠かない。屋根裏部屋の映画技師でも、手袋屋の見習い女工でも、横丁のアイスクリーム屋でも、それぞれが物語の主人公だった。

そして1960年には、サンジェルマンデプレは変わってしまい、そこにはもはや何も残されていない、とすでにして歌われることとなる。

黒い衣裳をまとったジュリエット・グレコは、さながらサンジェルマンデプレの喪に服するかのように、ギイ・ベアールの作った唄に魂を吹き込む。あたし達のサンジェルマンデプレはもう今はない‥‥。

「セーヌ左岸の恋」より

‥‥やっと物心つき、サンジェルマンデプレという街を知り、その街の名の響きを耳にするだけで胸ときめかせたサンジェルマンデプレは、こうして、あらかじめ失われた街であることを宿命づけられていたのかもしれない。

憧れの街にはじめて足を踏み入れた1980年代末期、サルトルはすでに亡く、ボーヴォワールもすでに亡かったけれど、マルグリッド・デュラスは健在だったし、ジャンヌ・モローも暮らしていた。

ボリス・ヴィアンが喇叭を吹いていたというジャズ・クラブも残っていれば、午前2時3時、客の姿はいたるところにあった。通行人の絶えることもなかった。

真夜中に牡蠣を食いながら飲むワインの味は格別だったし、教会前の丸みを帯びた石畳が、道ゆく自動車のライトに浮きあがるさまも見飽きなかった。

次第次第に姿を変えてきたサンジェルマンデプレは2010年代、すっかりファッションブランドの街になった。有名ショップが軒を連らね、大きな紙袋をいくつも提げた買い物客が往き交い、銀行のAMが目立つ街になった。

生鮮野菜や肉、チーズ、日用の食品を扱うマルシェだった建物さえ、有名ブランドの入る商業施設となり、住民や若者たち、旅人のたむろする有象無象の場所や空間は根こそぎなくなったか、様がわりした。

常連だったサルトルが、珈琲一杯で何時間も原稿を書いていたという逸話の残るカフェも、その珈琲一杯の値段が信じられぬほど高価になって、かつての常連や住民たちが気軽に利用するような店ではなくなった。

カフェもレストランも、ブランドショップ巡りのお客をターゲットにする。ブランドショップ巡りの客の多い昼間は混雑しても、夜はがらがらになる店が多い。

閑散とした夜の街路、そこにパリでもっとも古いロマネスク様式の教会の鐘楼がそびえたつ。サンジェルマンデプレ。直訳すれば、野原の聖ジェルマン、といったところか。

起源を6世紀メロヴィング朝にさかのぼるという教会は、フランス革命前まで大きな勢力を誇っていた修道院に付属するもので、かつての広大な修道院の敷地のうち、教会の部分だけが今に残った。

神学はもちろん古文書、史学、さまざまな分野で知的探究心の強い修道士たちが集まったことで有名だったそうだ。彼らも仰ぎ見たであろう鐘楼を眺めていると、皓々と照る月が鐘楼のすぐ脇に出ていることに気がついた。

今まで幾度ここを歩いたことだろう。幾度も歩きながら、はじめて月影を意識した気がする。この街で、月の明かりを発見する‥‥なんとも奇妙な感慨にとらわれる。

街は変わっていく。

変わっていることに、ある日気がつく。

こうして、絶えずサンジェルマンデプレは失われていく‥‥。

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