アレクサンドル3世橋近く、シャンゼリゼ大通りとセーヌ川の間にあるプティ・パレは、1900年のパリ万博の展示用施設として建てられた。柔らかな陽射しの入り込む大広間を抜け、北側の常設展示場に足を踏み入れて‥‥驚いた。
ここにいたのか。‥‥思わず呟いている。
何年前になるだろう、確か東京白金の庭園美術館だった。19世紀パリ風俗を主題にした展覧会があって、そのとき強く印象に残っていたものが、そこにいたのだ。
画家の名前も知らなければタイトルも覚えていない絵を、どうしてこうも咄嗟に、その再会を運命的なものとさえ感じたのか。‥‥それにはもちろんわけがある。
この肖像を見た瞬間アルヌー夫人、フロベール「感情教育」のアルヌー夫人と勝手に思いみなすことに決めたからだった。蛇足ながら今回はシャルル・ジロン「手袋をした女性」1883年の作品と、ちゃんとメモしてきた。
ちょうど「感情教育」を読みなおしている、まさにそのとき、プティ・パレでの再会だったから驚きはさらに深く、ダメ男の主人公フレデリック・モローくんにお付き合いして、彼の愛した女性の暮らした街を訪ねてみる気になった‥‥。
1840年9月、18歳の青年モローがはじめて出会ったとき、アルヌー一家はショワズール街24−2に暮らしていた。美術関係の新聞を発行しながら画廊を経営する実業家アルヌー氏は、お調子者ながら精力的に働き、芸術と事業を結びつける存在として、芸術志向の若者たちからの尊敬も集めている。
2区の北西部に位置するショワズール街‥‥。24番地はグラン・ブルヴァール、イタリアン大通りに交わるところに近く、現在では巨大な銀行の建物の一部に組み込まれた形になっている。
この大通りは19世紀からベル・エポックのパリを代表する繁華街、光り輝くモードの発信地として歴史に残る場所だから、そのすぐ近くに住居を構えるアルヌー氏はなかなかの遣り手であったのだろう。上昇欲に燃える野心的な若者たちが集まる場としてもふさわしい。
それにしても、これほど当時の金融・経済の中心地、社交のカナメとなる繁華街に近くアルヌー夫人が暮らしていたとは、少し意外な感に打たれたのも正直なところだ。ブルジョワ家庭を守る、どちらかと言えば控えめな性格として描かれているせいもあるだろう。
要領よく立ちまわり、見栄っ張りでもあるアルヌー氏は商売に身が入らなくなり、金遣いの荒い愛人を持つと、基盤の弱い新興実業家であるだけに没落も早い。変わり身も早い。新聞と絵画からは手を引き、中国風陶器の製造販売へと転身する。
というわけで、数年後に再会したアルヌー一家の住所はパラディ=ポワソニエール街37。パラディ=ポワソニエール街は現在パラディ街と短縮された名になっている。
10区東駅近くフォーブール・サンドニ街をグラン・ブルヴァール方面へ南下してすぐ、右に入る道がパラディ街。フォーブール・ポワソニエール街までつづく道だ。
一階は商店、上は住宅となった建物のつづく、どちらかと言えば雑然とばらけた印象の、とりわけ特徴のない通り。‥‥それでも19世紀半ばには陶磁器製造関連業者の多く軒を並べていた街と聞けば、現在でも陶磁器ガラス製品を取り扱う店が多いような気がしてくるから不思議だ。
足早に行き交う通行人の邪魔にならぬよう、さらに目を凝らすと32番地、30番地、バカラとサン・ルイ、クリスタルガラスの代表的なメーカーの隣り合っていた跡(共に1832年とあり、当時2社は協力、提携関係にあったものらしい)、18番地「パリの屋敷」と看板の出た建物などが浮かび上がってくる。
この建物はもともと陶磁器商の店舗だったもので、外側と言わず内側と言わず、商品をアピールするため陶製の装飾を施した。1900年前後の建築ではないかと看板にはあり、現在はお化け屋敷、アトラクション施設として使われている。
さらに54番地にはバルビゾン派、風景画の大家カミーユ・コローのアトリエがあったとの表示も見つける。美術、工芸、食卓を彩る陶磁器、ガラス製品。19世紀、1840年代の街並みが少しずつ甦り、現在の光景ににじみ出てくる。
‥‥知り合ってから8年、モローは遂にアルヌー夫人と逢引の約束を取りつける。待ち合わせの場所はトロンシェ街とラ・フェルム街の角。ラ・フェルム街はヴィニョン街と名が変わり、マドレーヌ寺院とプランタンデパートのちょうど中間くらいのところにあたる。
現在では高級食材とブランド衣料品を求めて、中国人日本人の女性観光客の姿も多く見掛ける街の一角だが、ここをクライマックスの場に設定したフロベールの狙いは、なんとも心憎い。
逢引の場である以上、人目を引く大通りというわけには行かず、と言って夫人が出向くのをためらうほど生活感の漂う裏通りというわけにも行かない。知人と偶然会ったとしても不自然ではない場所。
そして、それは1848年2月22日火曜日。二月革命勃発の日。用意万端ととのえ「約束の地」へとおもむいたわれらがモローくんは、マドレーヌ寺院の向こう側、議会のあるブルボン宮方面で起こりつつある歴史的事件と接しながら夫人を待つことになる‥‥。
偶然と言えば偶然、必然と言えば必然。モローとアルヌー夫人のいた1840年代のパリは、変革期へとなだれこむ直前の力を溜め込んでいた時期にあたる。昆虫の成長にたとえれば、さなぎの時期とでも呼ぶのがふさわしいような。
巨大な脱皮に向けた人びとの蠢き、都市の軋みが、アルヌー夫人の影の向こうに広がっている。フロベールの小説世界の大きさを感じぬわけにはいかない。