
シテ島内にメトロの駅はひとつ、地上出口もひとつで間違えようはないから、待ち合わせには都合がいい。
メトロ出口は花市場の脇で、広い道幅リュテス街の西側正面にフランス司法機関の頂点パレ・ド・ジュスティスがどしんと構えている。通りの向かいは行政警察、東側へシテ街を渡れば病院オテル・デュ。
ここの空間は1850年代から60年代の第二帝政時代、ナポレオン3世とオスマン知事、こと都市改造プランにおいてはほとんどオタク、ある意味、史上最強と言っていいコンビによって生み出された。このコンビ、とかく毀誉褒貶はあるけれど、今回はそうまとめておく。
タバコを吸うならゆっくり一本分、写真を撮るもよし、しばしぼんやりたたずむもよし。
行政警察の建物を回りこむように左岸と結ぶプティ・ポン方面へ向かえば、もうそこにはノートルダム大聖堂前の広場が広がっている。現在の広場は、13世紀に造られた堂宇の壮大さに見合う釣り合いと規模を誇る。しかしこのあたり、19世紀半ばを迎えるまで小路の入り組んだ家屋密集地帯で、広場の面積もほんのわずかなものだった。
花壇とベンチと鳩、そして何より均整のとれた大聖堂を正面から眺め味わう喜びには格別のものがある。地下にはここで発見された古代の街並みの遺跡がそのまま展示されており、パリを造り暮らしてきた人びとにとって、シテ島東南部にあたるここがいかに大切な場であったか伝わってくる。キリスト教の伝わるはるか以前から、聖堂の建てられるまでもなく、ここは祈りの場だったのだ。
そんな見るべきもの満載、楽しみ満載の地で、わざわざ地面を這いずりまわる時間を作るのは惜しいかもしれない。である以上、暇を持て余しているときでいい。少し当たり前の観光に飽きたときでもいい。むくむく好奇心が頭をもたげたときならなおさらいい。‥‥広場の地面を眺めて歩くのをオススメする。
うつむき加減にゆっくり足を運ぶと、気づかずにいたものが見えてくる。‥‥オスマンによる大改造以前の、建造物や小路の輪郭や名前の刻み込まれているのが視覚に浮かび上がってくるのだ‥‥。
大聖堂正面につづく表参道にあたる道は、ヌーヴ・ノートルダム街という名であったらしい。両脇にはびっしりと建物が並んでおり、しかも現在シャルルマーニュ像のあるあたり、ここにかつてのオテル・デュの跡が見つかる。‥‥いかに教会前広場は狭く、建物も人もひしめき合っていたことか。中世の都市空間をあらためて感じ取る‥‥。
オテル・デュ。直訳すれば「神の館」、現在はメトロの駅近く、大聖堂前広場の北側に移転し広大な敷地を構えた市立総合病院として機能しているが、その歴史的な名乗りから明らかなように、前身は中世の施療院にまでさかのぼるという。パリでいちばん歴史のある医療施設であることは間違いない。教会の付属機関からスタートし、時代と共に規模も役割も変えてきたのだろう‥‥。
と、ここでいささか乱暴な一般論になるが、19世紀のフランスで、病院は一種の収容施設であったと理解しておいた方が、実態に近かったのではないかと思われる。自宅で介抱され医師に往診してもらう恵まれた医療の対極にある「病院送り」は、救いのないものと意識されていた形跡がある。
19世紀半ば以降を舞台にしたエミール・ゾラの小説の登場人物たちでも、アルコール中毒や精神病、行き倒れ‥‥運び込まれる病院への恐怖と惨めさを共有している。また病院のある当時の場所を見ていくと、監獄とか処刑場のある地域と重なることが多いのも、まったくの偶然とは言えない気がする。
ここでは健康の回復より、隔離、処分という色彩が強かったのではあるまいか。百パーセントの自信を持てないので、疑問形にしてお茶を濁しておくが‥‥。
オスマンの都市改造計画によって移り変わりゆく街区を、市からの要請に基づいて、記録に留めておくよう写されたシャルル・マルヴィルの写真に、移転以前のオテル・デュを見つけた。いわば当時の公的記録写真ということになる。
左岸ミシェル河岸からプティ・ポンを前景に病院の建物が写され、その背後にはノートルダム大聖堂の二つの塔が見えている。まさしく現在シャルルマーニュの像の立つあたり、というより広場のセーヌ沿いを覆うように病院は立っている。
正直なところ、この写真を見つけたときには19世紀パリを遊歩する者として、背筋のぞぞぞとするのを覚えた。ここには大きな時代の転換期が凝縮されている。こと衛生面に限ってみても、産業革命下、人口爆発の渦中にあって、最悪の状況を呈していただろうことは容易に想像がつく。
そもそもセーヌの川べりに、どうしてこの病院は建てられたのか。‥‥半ば見捨てられた病人、患者たちの発する汚物を流すのに便利だったから。そう考えて自然だろう。
プティ・ポンのすぐ下流にあたるマルシェ・ヌフ河岸にあったモルグ、身元不明者の遺体収容・公示所を考え合わせると、これら全体でひとつの機能を果たした巨大な施設と見なせるようにも思えてくる。
このセーヌで、人びとは洗濯し水浴し汲み上げた水で料理し、喉の渇きを潤した。1832年にはコレラが大流行する。
‥‥そんなことを思いながら、石畳に嵌め込まれた小さなブロンズ板を探してみるのもまた一興。これが道路元標、フランスの国道の起点になっている。