プティ・ポンを渡る:シテ島往ったり来たり

橋と行政警察の入る建物

幾度つけかえられ、様式やデザインがかわっても変わらずここに架けられていた橋、それが「小さな橋」プティ・ポンだ。川幅のもっとも狭い場所に架かるもっとも短い橋、しかしながら歴史的にはもっとも長い橋でもある。

東西に伸びたさつま芋の形、セーヌの中洲であるシテ島のほぼ中央を、南北に串刺しにしたところを想像して欲しい。

まっすぐ北へ突き出た串はサン・マルタン街へ、逆に南へまっすぐサン・ジャック街、いずれも古くからの街道でパリの中心を走るタテ軸にあたる。プティ・ポンは南北に貫くこの道の一部であり、シテ島と左岸をつなぐ場所と言い直してもいい。

いかに重要なカナメと位置づけられていたか。その証拠になるのが、左岸に渡ったところに築かれた砦だろう。右岸側の大シャトレ(現在でも地名に残る)に対して小シャトレと呼ばれ、この左右両岸一対の砦が近世以前には島と街道を守っていた‥‥。

お店の名に残る「小シャトレ」

橋を渡ってシテ島に入ると、右手に広がる広場の向こうにノートルダム大聖堂、左手にはマルシェ・ヌフ河岸沿いに行政警察(プレフェクテュール・ドゥ・ポリス)の入る建物がそびえている。

のびのびと空間のひろがる一帯も、19世紀半ば過ぎまでは無秩序に入り組んだ家屋密集地を形成していた。街道沿いでセーヌに近く、宮殿と大寺院に挟まれて、曲がりくねった路地と行き止まりの袋小路が錯綜する、いわば中世都市の雰囲気を色濃く残した地域だった。

市の真ん中に広がる「中世」は、19世紀にはほとんどスラム化した街区に成り果て、それだけに小説家の想像力を刺激するものでもあったのだろう、この時代に人気を博する新聞連載小説の舞台となっていることも多い。革命と抗争の時代、家柄の良さとかつての栄光を背負いながら落魄と頽廃、今や社会の底辺をさまよう登場人物の出入りする場として最適の舞台だったことになる。

1850年代から60年代の第二帝政下、オスマンによってなされた都市改造はスケールも大きくパリ全域に及び、さまざまな街区・地域が文字通り近代都市へと脱皮を遂げる。そのうちでも代表的なものの一つに挙げられている一帯でもある。

今回は密集家屋が路地ごと撤去された左手、マルシェ・ヌフ河岸に焦点を絞ることにする。

行政警察の中庭

すでに記したように、ここは広い中庭の広がる堂々たる建造物となり、現在では行政警察が入っている。われわれパリ長期滞在者が滞在許可証更新のため毎年呼び出され、ご厄介になる建物である。

世界中からいかに多くの人びとがパリに集まり長期滞在しているか、そのたび素朴に驚かされ、それがこの都市のダイナミックな力の源泉になっているのかと実感させられる施設。広い中庭は国家的なセレモニーの場として使用されていることも多い。

セーヌ越しに左岸の見える河岸は気持ちの良い通りだが、オスマンによって島の東端に移されるまで、ここにモルグがあった。事故、行き倒れ、事件、病い、死因はともあれ身元不明の死体、遺体を安置、公開していた場所、推理小説や映画でもお馴染みの場所だろう。

スラム化した街にモルグ、なんとも気の滅入る地区であったことは間違いない。貴重なリトグラフを見つけたのでご覧いただきたい。1830年のモルグの様子を、現在ブキニストたちの並ぶ左岸からセーヌ越しに描いているものだ。七月革命前後だから、ちょうど新聞連載小説で舞台になっていた時代ということになる。

河岸から突き出したように一部三階建ての建物の左手に階段があり、板を渡して死体置き場がある。川の流れの上に何体もの遺骸の並べられているのを見ると、保存上か衛生上かまた別の理由か、こういう形が合理的とされる要因があったのだろう。

次々に、今も二体が運び込まれようとしている。身元不明者というには少々多過ぎるのではないかという気もする。大事件や大事故でも起こった直後ででもあるのだろうか。それこそ七月革命の蜂起の後始末とか‥‥。

左側に見える人だかりは、行方不明者の安否を確かめに集まっている人びとだろうか。背景は現在行政警察となっている地。現在も変わらぬのは川の流れだけで、建物は一切失われている。

誰がどういう目的で、こういうリトグラフを制作、保存しておいたのかは分からない。仮に新聞小説の挿し絵か何かであったとしても、淡々と情緒をまじえず、明確な記録として切り取っておきたいという意思がずしりと伝わってくる。

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