奇跡小路、ミラクル小路というとどういう場所を浮かべるだろう。
空襲で燃え尽きた町の一隅に、ほんのわずか無傷で残された家並み。東の聖人と西の賢人が出会った街角。どこからとも知れず現れた旅人が萎えた子どもの足をさすったところ、やおら立ち上がりたちどころに歩き始めた街‥‥。
19世紀パリにあっては、奇跡は奇跡でももうひとひねり必要だ。
泥棒、詐欺師、物乞い、娼婦、浮浪者、大道芸人、流民、逃亡者‥‥いかがわしく、かつどこか怪しげな者たちがたむろする、夜警も滅多に足を踏み入れない場所のこと。
昼間、身障者を装って物乞いしていた者たちが、夜ここに戻ってくるやすっかり障害が解けている。目はしっかり見開かれ、二本足で歩き、大声で語り合う。それが奇跡小路の奇跡小路たる所以なのだ。
‥‥いやはや。
袋小路や迷路状になったこういう奇跡小路は、パリの随所にあったという。中央部には貧民窟、周辺部に場末の吹き溜まり。光と影のコントラストの鮮やかさがパリであるとするなら、間違いなく暗黒色の部分をかたちづくる街並みが横たわっていた。

そんな奇跡小路のうちでももっとも有名で規模の大きかったのが、ケール広場を中心にした箇所だったという。2区北東部、グラン・ブルヴァールから南下したポワソニエール街がプティ・カロー街と名を替えて、交叉するアブキール街を少し東に進んだところに位置する三角形の小さな広場だ。
ケールはフランス語読みでエジプトの首都カイロのこと。1798年ナポレオンのエジプト遠征を記念して命名されたもので、前述のアブキール街はじめアレクサンドリー街など、このあたりの地名はエジプトにまつわるものが多い。
広場の東側にはケール街に沿う形で、この年に開通したパサージュ・デュ・ケールが口を開いている。入り口上部の建物壁面に3人の古代エジプト女神の頭部と装飾模様らしきものが浮き彫りにされて並んでいる。逆に言えば、それだけが名前にふさわしい装飾だと言える。
現存するパリの屋根付きパサージュで、最古の歴史を誇るのがここ。その意味では貴重な存在ではある。ただし散歩や散策者向きに作られてはいない。これは大いに強調しておいていい点だと思う。
世界一の観光都市パリとはいえ、ここまで入り込んでくる観光客はそう多くないだろう。シックでもなければ、そもそもシックに見せようという気もない。それは開設された当時からそうだったはずだ。なにしろ奇跡小路の中央につながっていたくらいだから。
華々しい姿を売り物にするわけではなく、地元密着型のアーケード商店街としてスタートしたのが、19世紀前半には銅版画入りの新聞、パンフレットの類が隆盛をきわめたため、その作業場、印刷所などが軒を並べたものの、第二帝政以降はすたれ、寂れに寂れていった。
幾度も取り壊しの話が出たものの、地権者たちの合意にいたらず長らく放っておかれたというのが実情だったらしい。現在では、この街区一帯、衣料品の卸売商とか小売陳列用のマネキンを扱う店が軒を並べ、パサージュも例外ではない。なんとか生き残り、新しい活路を見出したといったところか。
パサージュの中で最大の見せ場と思われる、分岐合流点の天井硝子を写真に撮ろうとしていたら、大きな箱を運び出していた青年がぶつかってきて、危うく壁に身を打ちつけそうになった。‥‥そう、ここは観光地ではなく仕事場なのだ。
枝分かれしたパサージュの本線は、ケール広場とサン・ドニ街を結ぶ。以前、この出口のあたりは真っ昼間から街娼たちの立ち並ぶのを見かけたものだが、今では少なくとも一見してそうだと分かる姿はない。
街はこうして姿を変えていく‥‥。
というわけで、このあたりに19世紀パリの奇跡小路を見出すことはもはやない。
産業革命の下で急速に膨れ上がり、発展とひずみを見せていた都市の暗部。それもまた姿を変え、別の形で口を広げているのだろう。さらに入り組み、目立たぬ形で。