あらためてポン・ヌフ:シテ島往ったり来たり

アンリ4世騎馬像の前に立って、あらためてポン・ヌフを眺める。今から400年前にこの規模、この広さ‥‥ひとつの広場と言ってもいい空間と視界の広がり‥‥。

ゆったりとした大路には、威風堂々と街灯が並び、橋脚の上は半円形に川面にせりだしたバルコニーか見晴台のおもむき。観光客ならずとも思わず足を留め、周囲を見渡してひといきという気分になる。

実際、17世紀から18世紀にかけて、ここは橋というより、橋の機能を備えた祝祭の場と呼ぶにふさわしかったのではないか。各種の屋台が出て思い思いのものを売り、軽業師や大道芸人たちの晴れ舞台でもあったというくらいだから。

ポン・ヌフとは「新しい橋」を意味するが、アンリ4世の時代にことさら「新しい」と名乗ったのには理由(わけ)がある。それまでの橋といえば両脇にびっしり家が立ち並んでいて、セーヌに架かる橋も、かつて例外なくこのスタイルだった。

それに比べて、立ち並ぶ家のない橋は川に向けた眺望がよく、道幅の広さはもとより、開放的で明るい場となった。以後セーヌに新たに架けられたり架け直されたりした橋は、基本的にこのスタイルを踏襲したから、今やポン・ヌフは「新しい橋」の最古参になってしまった。

1786年、ノートルダム橋の家の取り壊し

この間の事情をよく物語っているのがユベール・ロベールの絵画「1786年、ノートルダム橋の家の取り壊し」だ。ノートルダム橋も右岸とシテ島を結ぶ橋だが、18世紀大革命直前にあたるこの時期、今まさに橋上の家々の取り払われているさまが描かれている。

気をつけて見ると、ノートルダム橋の奥に見える隣の橋にはまだ数階の建築群が並んでおり、さらにその奥の橋の上には空が広がっているように見える。隣の橋がシャンジュ橋、その奥がポン・ヌフにあたると考えていいと思う。いずれにせよ、新旧のスタイルが混在し次第に新式に取って代わられる時代だったことを示している。

ちょうどその時代の市民生活を映す一級資料として名高い、メルシエ「十八世紀パリ生活誌」には、ポン・ヌフについての一章があり、

人体における心臓のような位置を町の中で占めており、活動と交通の中心地である。寄せては返す波のような住民や外来者の往来は、この通路にはなはだしく集中するので、誰か探し求めている人に会うためには、毎日一時間ここをぶらぶらするだけで十分なほどだ。

と記され、さらにつづけて、

密偵もそこで張り込みをするが、数日たっても、探索中の男が姿を見せないときは、「奴はパリの外にいる」ときっぱりと断定する。

とある。1782年と年代入りの記録に、表現上の誇張はあるかもしれない。それにしても当時、単なる繁華街というにとどまらず、市民生活を営むうえで必要不可欠な機能が、この橋を中心に集中していただろうことは想像にかたくない。必要不可欠と言うのは、人びとの欲望を搔き立て、満たす場でもあったという意味でもある。

その観点から言えば19世紀以降、ランドマークとしての地位を保っているとはいえ、そこまでの魔力は失っているのではないか。少なくとも現在、良くも悪くも魔力をもって人びとを動員し誘いこむ場所とまでは言えない。

19世紀、繁華街はパレ・ロワイヤルからグラン・ブルヴァールへと移り、世紀末ベル・エポックから20世紀、次なる展開と変遷を遂げていく。その流れからすべり落ち、今やこの界隈はゆっくりとまどろみのうちにあるようにも感じられる。

それともまたいつの日か、パリを代表する繁華街として復活する日がくるのだろうか。

その鍵を握っているのは、現在(2018年2月)もポン・ヌフ右岸たもとに建設中の商業施設、サマリテーヌかもしれない。かつてここには伝統を誇る同名のデパートがあり、2005年に閉店。ここの屋上からの眺望は素晴らしく、個人的にはパリ一だと感じていた。

これからどういう施設が完成しオープンするのか知らないが、シャトレの賑わいがこの界隈に流れてくる契機になるかもしれない。いずれにせよ、閉店して10年以上も経つデパートの名、サマリテーヌはこのあたりを語るときずっと語り継がれてきた。

サマリテーヌは「サマリア人の女性」で、聖書中の登場人物。水を汲みにきた井戸でイエスに出会い、その真実を見抜く力に感服して改宗した異教徒の女性。イエスの教えの伝わっていくさまをあらわすエピソードとして語られる。

‥‥ここに登場する女性がデパートの名前となり、今日まで漠然とこのあたりを指し示す名称となっているのにも理由(わけ)がある。

ポン・ヌフとサマリテーヌ取水場(1777年)

ポン・ヌフ建造の際、右岸寄りにセーヌの水を汲みあげる揚水設備が設置され、この取水場の装飾には「水」にちなんだ逸話、サマリテーヌの像が採用された。‥‥ここからは半ば想像になるけれど、メルシエにあるような繁華街で取水場のサマリテーヌ像は恰好のポイントとなっただろう。

渋谷のハチ公前広場、上野公園の西郷さんの例を持ち出すまでもあるまい。サマリテーヌは次第にあたり一帯のポイントであり、その場所を指し示す象徴性を帯びることになった。あらたな時代のランドマーク、デパートの名に冠されたのも自然な流れだった。

取水場が撤去されサマリテーヌの像がなくなっても、その名はデパートとして残り、デパートが閉店し次の時代を迎えようとする今も残る。別の形で残りつづけようとしている。サマリテーヌが何者であったか、その像がいかにあったか忘れ去られても、その名だけは記憶の残像のように刻み込まれていく‥‥。

アンリ4世騎馬像:シテ島往ったり来たり » 遊歩舎
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