バリケードの地:「レ・ミゼラブル」のパリ

1832年6月5日のパリを夢想してみる。

パン屋からは焼きたての香ばしいにおいが漂い、家具職人の親方は肘掛け椅子の仕上げに余念がなく、お針子の娘はご婦人のつば広帽子の刺繍に取りかかり、近郊の野菜を市場に運び込む荷馬車の音が石畳に反射する。

それでも行き場のない重い空気はとどこおっている。2年前に決起、復古主義の反動的王政を打倒したと思いきや、傍系のオルレアン家から顔を出したルイ・フィリップが、新興ブルジョワ勢力にかつがれ、ちゃっかり王座について澄ましこんでいる。

自ら血を流して勝ち取った果実を、さも仲間うちのような笑みを絶やさなかったブルジョワに横取りされた挙げ句、そのおこぼれにあずかることすらできず、かつかつの生活に変わりはない。

春から流行しはじめたコレラは汚染源も特定できず、衰弱しきって斃れた病人はボロのように朽ち果てていくだけ。明日は我が身か、いやでも不安はつのってくる。

‥‥そんな折、かつてナポレオン麾下のさっそうたる将軍であり、自由を掲げる政治家として人望のあったラマルクが亡くなる。葬儀の執り行われたのが6月5日。

小さな核を中心にみるみる結晶してゆく雪のように、人は集い、民衆は立ち上がる。これが「レ・ミゼラブル」のクライマクスの背景となる。

パリのいたるところ叛乱の火の手が上がり、それらに呼応してマリユスの仲間たちがバリケードを築き立て籠もったのは、レ・アル(中央食品市場)に近い、サン・ドニ街とモントルグイユ街に挟まれたあたりに設定されている。

この地は、本文中に書き込まれた小さな街路名など現存しているものも多い一方、第二帝政期の大規模な都市改造の対象となった地域であり、その後も20世紀1960年代の市場移転など、近郊に伸びる鉄道やメトロの大規模な乗り換え駅、商業施設の建設などさまざまな変身の重ねられてきた場でもある。

原作を片手に歩きまわり、現在のランビュトー街、プティット・トリュアンドリ街をつなぐモンデトゥール街、ほぼこのあたりと見なすことにする。そもそも、細かな部分でユゴーによる創作が加わっていないとの保証はないわけだから、このあたりにたたずんで想像力を遊ばせるに越したことはない。

モンデトゥール街からプティット・トリュアンアンドリ街を望む

居酒屋コラントを「本営」に、2ヵ所のバリケード。死と隣り合わせのこの闘いの場に、ジャン・ヴァルジャンはじめ主要な登場人物が一堂に会し、一人ひとりそれぞれの物語が綾をなしていく展開は、劇作家ユゴーの面目躍如であること、今さら繰り返すまでもないだろう。

バリケードを築いての闘い、市街戦。民衆の蜂起と革命。とりわけ19世紀パリは、その「本場」として特異な輝きを放っているわけだが、それだけにバリケード戦を闘う心理には、他の世界には見られぬ独特な民衆意識の形成を感じる。

闘いに向けた起爆剤とでもいうべき高揚と熱狂、多分ここまでは他の世界に共通するものがあるだろう。しかし、実際にだからここでバリケードを築いてしまうとなると、かなり特別、特殊な精神構造を持っていないとやっていけない。

いくらバリケードを築いたところで孤立すればお仕舞い。触発された第二波、第三波のうねりが呼応して起こらぬ限り、とても勝ち目はない。バリケードで闘いながら次なる蜂起、次なる決起、次なる合流を信じ、願う‥‥。

その可能性を信じ、現にそれが革命へと結びついて歴史を書き換えてきた。幾度かの成功体験は彼らを楽観的にし、反逆の合理性は信念ともなる。

しかし、そうそううまくいくとは限らない。限らないどころか、機はまだまだ熟しておらず、そこで討ち死にというケースの方が多かったのではあるまいか。1832年6月、マリユスたちの闘いもまた仲間たちが全滅する敗北だった。‥‥それでも彼らは闘う。

現実認識に欠けるロマン主義と呼ぶのもいい。ただしそれだけでは、ここに形成された民衆相互の信頼感のようなもの、今回の闘いで合流するにはいたらなかったが、本当に必要だと納得されたときには共に闘う、そういう民衆の底に形作られた合意を見落としてしまうことになるだろう。

そして、ここで問題にしたいのは作家によって作られた物語以上に、作品発表当時の読者にとって、この舞台が「闘いの場」として自然に受け止められる、場所の持つ喚起力のようなものだ。

決起する者にとって意味のある場は、同時に権力者側、統治者側からすれば、そこにバリケードを作って立て籠もられるのはつらい、目障りである、おもしろくない地であるとも言える。

山の中に籠もられても痛くも痒くもなかっただろうし、しばらく放って様子を見ていれば自然に収まるなどという場所で闘っても効果はない。

‥‥信頼する民衆に向け、つづいてくることをアピールし、かつアピールするに足る場。これこそバリケードを築き立て籠もる「闘いの場」にふさわしい。そしてここ、サン・ドニ地区も、闘う民衆の「名門」地域のひとつだった。

都心に近く、「パリの胃袋」と呼ばれた中央市場を控え、ここで何かが起こればただちに食、パリに暮らす人びとすべての生命に直結する。中央市場で働く流通業者、労働者、出入りする生産者、商人、職人も数知れず、そこへのインパクトも計り知れない。

またこの地は同時に、産業革命からの落ちこぼれである貧民、下層民たちの集まる「危険な」街区と接し、入り混じってもいた。彼らが一般民衆とスクラムを組むようなことになれば、統治者にとって身の毛のよだつ事態であっただろう。

さらに、資料的な裏付けを見出すにはいたらなかったものの、サン・ドニ街が歴史の中で占めてきた位置も無視できないのではないか。

もともとパリから北方に向かう古くからの街道で、交通のカナメとしても商業地区としても独自の発展を遂げていた。特筆すべきは、王権との関係で、ランスの大聖堂で戴冠した新国王がパリに入市する際、歿後サン・ドニの大聖堂に葬られるためパリを出る場合、いずれもサン・ドニ門とセットになったこの街を通過したという事実だ。

新しい王が入り、旧い王の出ていくところ。それは民衆の意識の深層に深く埋め込まれていたのではあるまいか。‥‥そんなことをぼんやり考える‥‥。

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