アンリ4世騎馬像:シテ島往ったり来たり

パリ発祥の地であるシテ島。英語のcityに当たるcitéを名乗るだけあって、発祥にとどまらず地理的宗教的歴史的心理的な中心と位置づけられてきた。

長さざっと1キロ、幅200メートルに過ぎないセーヌの中洲とは言え、今にいたるもパリのエッセンスをここに嗅ぎとることが出来るのではないか。そんな思いに駆られて、このシリーズをアップすることにした。題して「シテ島往ったり来たり」。

まずはアンリ4世騎馬像のあたりを歩き、たたずみ、想いにふけるところから‥‥。

島の西端、セーヌ下流に向けて突き出たくちばしのようなところを右岸、左岸、貫くように架けられた橋が、数多い橋のうちでも知名度の高いポン・ヌフ。その中央に置かれたアンリ4世の勇壮な騎馬像は、あたかもパリのヘソとでも言った趣を与える。

歴史を見る限り、パリ市民はあまり王様を好まない、むしろ煙たい、迷惑、厄介なヤツと感じる場面が多かったように映る。首を斬られたルイ16世は別格としても、パリから追い出されたり、王位を剝奪されたりした者は多い。

あの絶対王権を誇った太陽王ルイ14世にしたところで、ヴェルサイユに空前絶後の王宮を造って一族郎党引き連れ移り住んだと言えば聞こえはいいが、パリが決して暮らしやすい場所ではなかったから‥‥という心理の働いていたことは否定できないだろう。

その点、アンリ4世の評価はなかなかのものだったらしい。

ヴァロワ家のマルグリット(美貌と淫乱を今に語り継がれる王妃マルゴ)と結婚、ヴァロワ朝宗家の断絶によって1589年即位、ブルボン朝を開くこととなる。

占星術師ノストラダムスなどの活躍する乱れきった時代に、なにか流れが変わるかもしれないという期待は、漠然とではあっても民衆のうちに広がる。そして実際それに応え、宗教戦争という不毛な内戦状態を終わらせ平和をもたらした。彼の人気の根拠はなんと言っても、まずここにあるだろう。

国内に平和をもたらすと、イタリアを規範に文化と都市の再開発に乗り出す。

当時はイタリアの先進文化に対する憧れが強く、それをいかに取り入れるかに懸命だった。いちばん手っ取り早いのは王妃をイタリアからお付きの文化人ぐるみ迎え入れてしまうことだ、と意図したのかどうかまでは知らないけれど、結果的にはそうなった。

マリー・ド・メディシス

ヴァロワ王家に嫁いだマルグリットの母、気丈な策謀家カトリーヌ・ド・メディシスはイタリア、フィレンツェのメディチ家出身だったし、相性の悪かったマルグリットとの結婚は無効と認められた後にアンリ4世の迎えた王妃は、これまたメディチ家出身のマリー・ド・メディシスだった。

この2人のメディシスのもたらしたフィレンツェ文化は、都市のインフラ整備から食作法にいたるまで大きな影響を与えることになる。逆に言えば、それまでのパリは無秩序で非衛生的な中世都市に過ぎず、不潔で野蛮な住民たちの暮らすところだったと指摘されても、あながち的外れではない‥‥。

もっとも身近な例をあげれば、現在食事のテーブルで当たり前に用いるフォークとナイフも、彼女たちがもたらした。生活スタイルの根本にかかわる、大きな影響力。そういう積極的な文化受容もアンリ4世の人気に結びついているかもしれない。

ともかくイタリア様式を頭において、ポン・ヌフ、ドフィーヌ広場、ロワイヤル広場(現在のボージュ広場)を作らせた。というわけで彼の騎馬像はポン・ヌフの真ん中、ドフィーヌ広場に向けて設置されている。

妻であるマリー・ド・メディシスの発案により、フィレンツェで造られた騎馬像は大革命の際に破壊され、王政復古期、ルイ18世によって再建されたのが現在のものだという。その後の度重なる革命や帝政期などを考えると、むしろそれだけですんだのかと思われるほどだ。

1610年、ラヴェイヤックによって暗殺されるまで彼の治世はつづくが、その突然の不在、非業の死というのはまたまた民衆に深く華々しく刻印される要素となる。アンリ4世人気はこうして不動のものとなったとしても不思議はない。

ラヴェイヤックは狂信的な旧教徒で、宗教戦争の余韻の中でアンリ4世は犠牲になった、とされる。犯人側にしてみれば、アンリ4世は必要や都合に合わせて幾度も改宗を繰り返したから、許しがたい背教の徒と映ったのだろう。

したがって宗教なんかより現世的な平和を選ぶ、現代的な政教分離の萌芽がそこにはあったと解釈することも可能かもしれない。いずれにせよ、時代の転換期に現れたシンボルであったことは確かだ。

王妃マルゴ

先に王妃マルゴの淫乱さに触れたが、アンリ4世もそれに十分匹敵するだけの好色漢だったことも付記しておかねばフェアではない。なにしろ常時数十名にのぼる愛人がいたという話も残っているくらいで、これまた禁欲を実践する修道僧には恨みを買ったことだろう。

もちろん、好色たること即ち不道徳、欠点を意味するものではない。偏頗な道徳をふりかざすより、何事もおおらかに生きる方が幸福に決まっている。‥‥誰もがおおらかにはいられない、ここに最大の問題はありそうな気もする‥‥。

ところで視線を平行移動するように、東洋のはるかかなたの列島に移すと、ちょうどこれは徳川家康の時代に重なる。共時性というのだろうか。千々に乱れた戦国の世を終結させ、国内和平を取り戻し、江戸の町作りと幕府の初代将軍となるなど、歴史の転換期を示すいくつもの類似性を感じさせる。

好悪、人気のあるなしはともかく、1600年、日本に家康、フランスにアンリ4世と頭に刻みつけておくと、なにかと時代の感覚を摑みやすくなる。

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