ラップ街:パリ・ミュゼットの生まれた街

真っ昼間歩いても、その魅力が本当には伝わってこない街。そんな街のひとつにラップ街がある。

バスティーユ広場から北東方向にのびるロケット街を入ってすぐ右、ラップ街。ここは朝まで踊りつづけようという人びとの街。現在ハードロックとサルサが主流のこの街で、かつてパリ・ミュゼットは生まれた。時は移り流れる音楽が変わろうと、踊る男女の街であることに変わりはない。

踊る人びとの街の歴史。19世紀半ばから20世紀はじめのベル・エポックと呼ばれる時代にかけて、この街で起こり、醱酵していった物語をたどってみよう。

パリ周縁の家具職人たちの多く暮らす街区、フォーブール・サンタントワーヌの一角に、フランス中央部オーベルニュ地方から出稼ぎに来た人びとが住みついたところから物語は始まる。

産業革命による近代的な工業生産が本格化するにつれて、パリは人びとを呼び込む。流動化した人びとの群れはこれに応えてパリを目指す、吸取り紙に吸い取られるインクのように。職を求めて。パンを求めて。さらなる富を求めて。上昇を求めて。栄誉を求めて。

貧しい山国、オーベルニュから出て来た彼らは頑健な肉体、朴訥な真面目さ、そして強い団結力を何よりも誇っていた。資金も教育もない彼らに、たとえば水売り、水運びは格好の職業となった。

上下水道の完備される以前、エレベーターなど考えられぬ時代。6階、7階と高層建築での生活を余儀なくされる市民生活では、生活用水をアパルトマンに運び込むことだけでも重労働だった。

こういう力仕事の需要は多く、その延長で生活必需品の薪、石炭を扱い、同様に麻袋に入った乾物であるコーヒー豆を扱い、後にはパリのカフェ文化を担うのはオーベルニュ出身者という時代が来るほど、存在感を増していく。

一日の重労働を終え夜ごと、彼らの集うラップ街では故郷の民謡を演奏し、陽気に踊った。当然ながら、本格的な踊れるカフェ(カフェ・バル)が軒を並べ始める。

彼らの民謡はミュゼットと呼ばれたが、これは故郷から持ち込んだバグパイプの一種のことで、本来は牛や羊を追うために牛飼い、羊飼いの用いていたもの。文字通り牧歌的だったわけだ。

このままとどまっていればしょせん民謡。山国のお仲間のストレス発散の場に過ぎなかっただろう。このミュゼットがアコーデオンに取って代わられる、これが事件だった。このときパリ・ミュゼットは誕生したと言ってもいい。

混乱しそうな表現になるけれど、楽器としてのミュゼットが退場したとき、音楽ジャンルとしてのパリ・ミュゼットが生まれ登場することになった‥‥。

このアコーデオンをもたらしたのはイタリア人、産業革命に立ち遅れた故郷から出稼ぎに出てきて住み着いた、オーベルニュ人と似た境遇にあったイタリア人たちだった。

伝統的に家具職人の多く住むこの街区でも、職人的熟練から工場労働者的勤勉へと、求められる労働の質の転換はあったものの、それでも仕事の性格上、手仕事の巧みさ、器用さは大きくものを言った。イタリア人労働者はそれにふさわしい資質を備えていた。

労働の後の仲間たちの宴。これもまたオーベルニュ人であろうと、イタリア人であろうと変わらない。いつしかこれらは影響し合い融合し合った。

そこにスパイスとして加わったのがジプシー音楽、中世に起源を持つパリ民衆のシャンソンはもちろん。後にはアルゼンチン・タンゴやモダン・ジャズの風味もそこに加わる‥‥。

ブレンドにつぐブレンド、こうして立ち上がってきたのがパリ・ミュゼットなのだ。

そうした草創期からのバル・ミュゼット(ミュゼットで踊れるカフェ)が、実は現在でも一軒だけ残っている。9番地のバラジョ。ふだんは若者たち主体の普通のクラブ(ディスコと呼んだ方が分かりやすいか)。それが週に一回、それも昼の間、かつてのバル・ミュゼットに立ち返る。

そんな情報を耳に、早速たずねてみた。4ユーロという安価なカフェ料金で、ノンアルコールのドリンク一杯。通されたのは懐かしい古い映画の世界。残念ながら生演奏とはいかないけれど、暗いホールに照明が瞬き、カップルが踊る。

誰も彼もがカジュアルな服装になって、役人でも銀行員でもジーパンとシャツ姿が普通になった時代、昔ながらの一張羅で繰り出している男女もいる。ほとんどがリタイア組だろう、年配のマダムとムッシュー。

普段街なかで行き交う男女より平均身長も低い気がする。オーベルニュやイタリアの地方から出てきて住み着いた人びととその末裔、という先入観のせいだろうか。東洋系はわれわれだけ、19世紀パリ原人系の比率が高い。

カウンターで珈琲を飲んでいるムッシューはこちらを眺め、明らかに何か喋りかけたそうな顔をしている。言葉が出来ないことを、つくづく残念に感じるのはこういう場面だ。ここで口を利き合えたら、ヤマほど面白い話を聞けるに違いないのに。

ほとんどが常連で、互いに顔見知りのようだった。‥‥毎週、県人会や同窓会をやっているようなものかもしれない。あるいは、敬老会とやらの一歩手前とでも言うべきか。

結束は固いけれど、決して閉鎖的ではない。頑固だけれど、人の話を聞くのは大好き。‥‥昔ばなしに興ずるのは、アタマが硬いからじゃない。先に逝っちまった仲間たちを思い出すためだ。あの頃を生き直すためだ。それでなくちゃ、今を生きる意味なんてないじゃないか‥‥。

ラップ街はそれほど長い通りではない。火ともし頃の街を歩けば、すぐにシャロンヌ街に抜ける。街が賑わい出すのはこれからだ。