ターミナル、終着駅。線路は文字通り行き止まりになっていて、構内に一歩踏み込むと、何本ものプラットフォームを広く見渡せる。
ぴかぴか光るレールがここから始まり、列車の発着、乗降客の流れるさまを見ていると、遠い地方、別の都市へと結ばれている、と具体的なイメージが脳裡に刻み込まれるのを感じる。
近代化、近代性とは何かを漠然とテーマに掲げ、19世紀パリを夢想しながら散策する者にとって、鉄道・駅舎はまた恰好の観察対象でもある。東京でこのタイプの駅舎といえば上野駅を思い浮かべるが、パリには六つのターミナル駅が現存している。
北部フランスからベルギー、イギリス方面に向かう北駅。アルザスからドイツ方面へは東駅。リヨン、マルセイユ、ニースなど南仏へはリヨン駅。オルレアンから南西にはオーステルリッツ駅。大西洋沿岸地域への始点はモンパルナス駅。そしてセーヌ下流、ノルマンディに結ばれるのがサン・ラザール駅だ。
いずれも1830~40年代開業とあって、当時のパリ中心部と周辺部の境目あたりに点在しているのが興味深い。その第一号であったサン・ラザール駅も、計画段階ではマドレーヌ広場を予定していたが、鉄道会社の思惑はパリ市当局、地域住民の意向と折り合いがつかず、現在地での開業になったという。
堅牢な石造りから、硝子(ガラス)と鉄の時代へ。建築、建設界の19世紀の流れはこう集約される。そのシンボルはいたるところに見出されるが、鉄道、そして都市の豪壮な表玄関としてのターミナル駅、駅舎は、今にいたるももっとも身近な構築物だと言えよう。
同時代を呼吸した美術の革命児たちがこれに気づかぬわけはない。印象主義を牽引する画家、モネの描いた「サン・ラザール駅」はあまりに有名な一品だが、硝子と鉄骨の巨大な駅舎に水蒸気と煙を吐き出しながら黒光りする蒸気機関車の入り込んでくるさまは、この時代の息吹をよく伝えている。
外光派、印象派と呼ばれる画家たちとサン・ラザール駅はそもそも縁が深いようで、彼らが集まり絵画理論を深めていったのはこの駅界隈のカフェだったり、このあたりに暮らす仲間のアトリエだったりした。
また彼らが好んで画題としたのも、この駅から出る鉄道沿線に散らばっている。パリ近郊セーヌ河畔のスポットからノルマンディ地方の港町、海岸の風景にいたるまで。
逆に言えば、太陽光を主題におく彼らの絵画革命は、太陽光のもとを自由に動き回りながらキャンバスに向かえる、絵の具画材類の開発と鉄道交通の発達など、技術革新、産業革命の進展と一体としてあったものなのだと、あらためて深く納得させられる。
豪壮、重厚な19世紀的威光を放っていた駅舎も、しかし時代の嗜好を取り入れ少しずつ変貌を遂げていく。一等車乗客用の待合室がなくなったのは、単純に利用者が少なくなったせいか、それとも身分制社会の希薄化を物語っているのだろうか。
駅舎の中にコンビニ風スーパーが出来たり、ハンバーガーショップがオープンしたり、ブランドショップが進出したり‥‥というのは日本のステーションビルに学んだせいかもしれない。手軽で便利で明るくカジュアルに。
大気汚染、化石燃料、環境問題。パリ市内に入り込む自動車台数をなんとか減らそうと必死に取り組んでいる時代、新時代の要求に合わせた鉄道の復権をアピールする場になっているとも言えそうだ。
これはいい、と感心させられるのが老若男女「誰でも自由に弾ける」ピアノの設置。六つのターミナル駅にそれぞれ設置されているけれど、偶然通りかかったタイミングはもちろん、主観と偏見を混ぜ合わせて断言すると、サン・ラザール駅での演奏者の水準がいちばん高い。
ショパン、デューク・エリントン、バッハ、ジョージ・ガーシュイン、なんでもありだが、ピアノの周囲には順番待ちの人びとが並ぶ。演奏の水準もいちばんなら、演奏しようと並ぶ人数もいちばん多い。
演奏が終わると一斉に拍手の起こることもあれば、ジャズのスタンダードナンバーで拍子を取ったり、興に乗って踊り出すのもいる。3、4歳の男の子が「ネコ踏んじゃった」とやったときには「ブラボー」の嵐。これほどひとを気分良くさせる以上、最高の名演奏であること間違いない。
かつてこの駅の近くにフランス音楽教育の中心であるコンセルヴァトワールがあり(現在は移転)、その名残か鉄路に沿ったローム街には楽器、楽譜を扱う店が並んでいる。そういう音楽愛好者が多く行き来する場所だという地の利を反映してもいるのだろう。
たった一台のピアノがこれだけばらばらの人びとを結びつける。いかにも駅という場にふさわしい。ちなみにピアノはヤマハ、それがまた妙に嬉しい。
飛行機が一般的な乗り物になる以前、遠く日本からパリを訪れる者は長い船旅の後、マルセイユに着き、そこから列車に揺られてパリへと入った。つまり日本から来て数ヵ月、はじめて出会うパリはリヨン駅であることが普通だった。
その中で例外的に、ここサン・ラザール駅がパリ第一歩となったのは永井荷風だった。1907(明治40)年7月のこと。「ふらんす物語」にはこうある。
サンラザールの停車場に着した。‥‥(略)‥‥今プラットフォームから往来へと出て行く旅客の中では恐く自分が——————出迎人も案内者もなく唯(ただ)一人生れて初めて見る巴里の大都に入ろうとする自分が一番早足に勇立って歩いて行く男であったにちがいない。
若い荷風が憧れの都会に降り立ったときの様子が浮かんでくる。ちなみにニューヨーク住まいを経て、大西洋を渡ってセーヌ河口の港町ル・アーブルから鉄道を利用したために、荷風はサン・ラザール駅でパリと出会うことになった。
110年前、荷風の降り立った場にこうしている。その事実に、粛然としないわけにはいかない。