出会いのリュクサンブール公園:「レ・ミゼラブル」のパリ

物語の場

物語には特有の「場」がある。

1945年雲ひとつなく晴れわたった夏の広島であることもあれば、ヴィクトリア朝のロンドンはベーカー街のことも、むかしむかしあるところ、というお馴染みのものもある。

‥‥「とき」と「ところ」の交叉点、そこで物語は生まれる。曖昧なままであったり、隠されていたり、架空であったり、逆にきわめて具体的に絞り込まれていたりの違いはあっても。

どの町で生まれ育ち暮らし、どの町で出会い、どの街で繰り広げられた物語なのか。どの街かが大きな意味を持ち、物語を構成する要素となる。逆に言えば、作中に記された街の名を漫然と読み流すことが、致命的な作品世界の読み落としにつながりかねない。

ユゴーの「レ・ミゼラブル」は、ある程度の仮構はあっても歴史的現実をしっかり枠組みに据え、明示された「場」に物語は繰り広げられる。ナポレオン失脚の時代から1830年代にいたるフランス。これが大枠となる。

そしてパリ。パリほどこの原則の当てはまる都市も、そうないのではないだろうか。

パリは多様な意匠を、それぞれの街に織り込んでいる。

物語を読む、それはしばしばパリを読み解くことと同義であるとさえ思えてくる。地図をひろげて小説を読み、作品を手に街を歩く。そこで物語は大きく膨れ上がり飛翔する。

リュクサンブール公園とテュイルリー公園と

たとえば同じ男女の出会いでも、舞台がリュクサンブール公園とテュイルリー公園とでは、19世紀小説の世界では大きく意味合いが違ってくる。

右岸の王宮に接し、貴族・大ブルジョワの居住する街区に近く、セーヌ沿いのテラスを有するテュイルリー公園を散歩するのは、イタリアン大通りで昼食を摂り、夜はオペラ座に出向くような人士。

一分の隙もない身だしなみに、エスプリのきいた会話で社交界の駆け引きもあれば、海千山千の手練手管もある、そういう世界がまずは浮かんでくる。

リュクサンブール公園は、その対照。左岸の学生街カルティエ・ラタンに近く、今でこそブランドショップの並ぶ高級商業地区となっているあたりでも、19世紀には庶民的な街がひろがっていた。

また、周囲に修道院や教会施設が多く、ヴァル・ドゥ・グラースやサン・シュルピスなどの鐘の音が響いてくる、いくぶん瞑想的な空間であったというような証言もある。

いずれにせよ民衆の明日を象徴する、気取りも打算もない、無垢な青年マリユスとコゼットの神聖な出会いは、まさにここ、リュクサンブール公園でしかあり得ないことになる。

ただ、ひと口にリュクサンブール公園といっても広い。無垢な男女が話しかけることもなく、何回にもわたってお互いの姿を認め合うのは、かなり限定された空間でなくてはならない。

苗床の手すりに沿った、現在のダサス街に面したベンチ。マリユスが散歩をするたび、ジャン・ヴァルジャンとコゼットのふたりは決まってこのベンチに座っていたとある。

リュクサンブール公園の中でも、宮殿と庭園に整備された華やかな区画から、もっとも遠いあたりということになる。この距離は、逃亡者ジャン・ヴァルジャンが一般市民社会との間に設けている遠さを表しているようにも感じられる。

青年たちの語らうところ

マリユスとコゼット、男女の出会いにとどまらない。民衆の明日を暗示する、もうひとつの決定的な出会い。マリユスと共に闘う同志たち、社会変革のため最終的には共にバリケードに立て籠もって生死を共にする、仲間たちの出会いの場でもある。

エドモン・ロスタン広場に面する門。脇には手回しオルガンの奏者

学生仲間は、現在のエドモン・ロスタン広場に位置するカフェの奥まった一室に集まり、煙草をふかし、酒を飲み、賭け事に興じて笑い合いながら談論風発。互いの友情と信念を深めていく中でひとつの集団を形作っていく。

警官に踏み込まれた場合にはふたつの窓と、裏の小路に出られる隠し階段を利用できるという描写を読むと、サン・ミシェル大通りの存在していなかった当時、学生たちの闊歩する入り組んだ街並みの広がっていたことが容易に想像される。

リュクサンブール公園に接するエドモン・ロスタン広場とパンテオンを結ぶスフロ街、それに交叉するサン・ジャック街、広場に合流するムッシュー・ル・プランス街を骨組みに形成された一角。

反抗するカルティエ・ラタン。この一角はそのうちでも代表的な場所のひとつだった。

リュクサンブール公園は、カルティエ・ラタンの伝説と伝統に隣り合わせて存在する。それは現在でも変わっていない。

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