パリに暮らし始めたばかりの大晦日、知人宅に招かれて年を越し、新年の祝杯をあげた。酔いの残る体で始発メトロに乗り、我が住まいの最寄り駅で降りる。階段を上り地上に出た瞬間、寒い。思わず首を縮めた。
雪が降ったのか舗道が濡れている。夜明け前、ぐっと冷え込んだ大気に吐く息は白く、夫と肩を並べ家路を急ぐ。ブルヴァールに沿って歩くと、私たちの靴音だけが寒空にコツコツ響き渡った。
家に近づくにつれ、ある思いが頭に浮かんだ。
「彼女はどうしているだろう。まさかこんな夜にいるはずがない。でも、あそこが棲みかなんだから‥‥」
葉を落としたプラタナスの街路樹、まっすぐの歩道は見通しがよく、街灯の明かりに浮き上がる影が遠目にうっすらと見える。
「いる、彼女がいる」
私は思わず声を漏らした。夫も身を固くする。彼女はいつもの場所、歩道にあるメトロの通気口の上に横になっていた。一台の車も走っていない。歩道を歩く人もいない。目を疑いながら進み、間違いなく彼女だと確認する。
傍らを通り過ぎようとした瞬間、彼女は痩せた身をしなわせるように上半身を起こした。枯れ枝のような片腕を伸ばし、湿気を含んだ冷気を摑むように五本の指を開いた。白内障を患っているのか白く濁った目はこちらに向けられていたが、焦点を結ばない視線はもっと上の天に向けられているようにも見えた。
彼女は路上生活者。
私たちが今のアパルトマンに住み始めたとき、すでに彼女はこの通気口の上の住人だった。パリにはメトロの線路に沿って地上に排気のための穴があり、頑丈な金網で覆われている。歩道の一部であり、パリジャンはその上をせわしく行き交う。畳一畳くらいの穴もあれば半畳くらいのもの、もう少し小さなものまでサイズはいろいろ。通気口からは暖かい空気が吹き出してくるので、路上生活者にとっては暖をとるためのありがたい恵みの場所なのだ。
そのままゴロっと寝転がる人、布団や毛布を頭からかぶって眠りこける人、数人集まり酒盛りする人たち、様々。場所によっては通気口が道路の真ん中にあることもあり、歩行者は寝ている人を迂回して通って行く。道の占領者を、だれもがさして気に止めていないように見える。
この街に暮らし始め、生活者の目で眺めると、改めて驚かされるのはホームレスの多さだ。彼らは街のそこここでそれぞれの生活を営んでいる。
我が家近くの通気口に居を定めている彼女に私が関心を持つようになったのは、ご近所さんということばかりではない。彼女には最初から印象に残る何かがあった。
「エレガント」な女性だと言うと意外に思われるだろうか。
背の高いすらりとした痩身、腰まで届く長い髪をシニョンにまとめ、身体の線を強調する細身のロングドレスとショールを身にまとい‥‥想像される彼女のかつての姿である。その上に、おそらく何十年という年月の垢と埃と汗が降り積もり、次第に崩れて今の風態になったのではないか。
伸びるに任せた白髪混じりの髪は、垢といっしょに糊で固めたような一つの塊になり、マーメイド型のドレスは擦り切れちぎれ、体からぶら下がっている。そこから放たれる臭いは強烈で何メートル先からでも漂ってくる。
それでも、居ずまいは常に品を感じさせ、サロンの中心でおしゃべりをしているような、あるいは、芝居の台詞を語り出しそうな、そんな雰囲気を持っていた。
彼女はいわゆる物乞いではない。
恵みを乞う器の代わりに、街で拾い集めた古新聞の束をいつも傍らにおいていた。シワを伸ばし、重ねて紐をかけどこかに運んで行く。新聞を引き取ってくれるところがあるらしい。それが彼女の糧となっていたのだろう。
冬になっても決してコートを着なかった。どんなに寒い日でも布団や毛布を持たなかったし、棲みかに生活臭のするものは不思議と何も置いてなかった。あるのは新聞の束だけ。もしかしたら、あの新聞は読むためのものでもあったのか‥‥。
晴れたある日、いつものように通気口に横になっていた。そこに界隈に住むマダムが通りかかった。顔馴染みらしく、彼女は素早く立ち上がり、マダムの差し出す手に握手して答え、しばらくにこやかに立ち話。「お互い市民同士」、二人の間の距離感は、そう無言のうちに了解しあっているようだった。
たまたま目撃したこの光景が深く心に残った。背筋を伸ばした彼女の態度にはある種の威厳と誇り、自尊心が漂っていた。柔らかな物腰に自分を貫く強さが見え隠れして、「エレガンス」を感じた意味を改めて理解できたように思う。
彼女に老いが、しかも急速に忍び寄っていると衝撃を受けたのは、あの夜明け前だった。白く濁った目が天に向けられたとき、それは聖なる瞬間だと思わせるものがあった。同時に、あぁ、彼女は老いて狂い始めたとも感じ、呆けた表情を彼女の中に見た気がした。
その後、しばらくして彼女の姿を見かけなくなった。シェルターと呼ばれる宿泊所やNPO活動団体などがあるから保護されたのかもしれない。
あの夜明け前、彼女は腕をさし出し何を語ろうとしたのだろう。
季節は移っていく。日の出時刻もだいぶ早まり、歩道の樹木も芽吹き始めた。
彼女の棲みかだった通気口からは臭いも染みも消え、今は何の痕跡もなく、通行人が足早に通り過ぎて行く。