パリの邦人向け小冊子で面白い記事を読んだ。フランスで暮らす日本人の嫌いな言葉ベストテンの上位に「セ・パ・グラーヴ」がランクされるのだとか。
“C’est pas grave.” 「たいしたことじゃない」、「気にしないで、大丈夫」といった意味で、日常的に使われるフレーズ。この言い回しからは、責任逃れのニュアンスがプンプン漂い我慢ならないということらしい。
それは、たとえば次のような場面でよく耳にする。
スーパーで買い物をした客がレシートの計算間違いを見つける。店員に指摘すると一言「セ・パ・グラーヴ」。返金はしてくれるが謝罪はなし。
ビストロでギャルソンがワインの瓶を倒し、皿や客の洋服を汚したとき「セ・パ・グラーヴ」。
これらはよく見かける光景で、店員やギャルソンが「たいしたことじゃないから大丈夫」と両手を広げて肩をすくめる。落ち度のある側が「たいしたことじゃない」という。日本人的には、「あれっ」と一瞬混乱する。「なぜ謝るべき人がセ・パ・グラーヴなの」と耳を疑う。
この「セ・パ・グラーヴ」、いずれのケースも日本でなら「大変ご迷惑をおかけしました」と謝る場面。「大変なこと」をして迷惑をかけてしまったという感覚だ。片やフランスでは「たいしたことじゃない」と、まるで逆の言葉を使い謝罪は無い。
日本人がムカつく理由はこんなところにありそうだ。
考えるに、「大変なこと」という言葉のうちには、皆が暗黙のうちに共有している基準、規範のようなものから外れてしまったという思いが潜んでいるのではないか。普通のこと、当たり前のことから外れてしまった、外してしまった、そんな想いが根底に宿っているのではないだろうか。
規範を大切にしている人、し過ぎる人は、「セ・パ・グラーヴ」と言われるたびに不誠実な対応を受けたと感じ、不真面目ではないかと怒りがこみ上げるのだろう。そうなるとフランス社会で暮らすのはきついかもしれない。その都度、気にしていたら参ってしまう。
あるときはこんな場面で使われる。
水漏れで壁に設置されていた給水タンクが落下、大家が駆けつけたときの第一声が「セ・パ・グラーヴ」。「これって一大事でしょう」と言いたくなる場面にもかかわらずだ。
惨事を目の前にして真顔で「セ・パ・グラーヴ」。首を振りながら両手を広げ、もう一度念を押すように「セ・パ・グラーヴ」。
こんなときいつも彼らは決まって真顔だ。まったく心配無用、驚くに値しないことだと言いたげに。
彼らの真顔を見るたび、その真剣さに内心吹き出しそうになる。
真顔の下の感情を悟られてはならない、全身を込めて封印しなければならないという心理からか決して視線は合わせない。案外と小心者の彼らゆえ、まず自身の動揺を抑え、相手の不安を募らせないようにあくまでも冷静に振る舞う。
非を認めればその場に緊張が走る。彼らの好まぬところだ。そこで、「セ・パ・グラーヴ」の出番となる。「たいしたことじゃない」。自分に言い聞かせ相手の気分をほぐす。この一言で奇妙な肩透かしを食らい、不思議と気持ちがやわらぎ、やがて笑いを覚える。
「セ・パ・グラーヴ」はピンチの際の最上の一言、幾世代もの知恵を結晶させた一言。魔法の掛け声ではないかと感ずるようになった。
パリはどこを切りとっても標準的、均一的なことなど一つもないと言っていい。ひとつひとつが例外で、別々の対処が必要とされる。違いがあることが普通。だから言ってみれば、たいしたことだらけだし、普通じゃないことだらけ。
砂漠の国から来た人も、赤道直下に生まれた人も、白夜で育った人たちも隣人として住み、同じ道を歩き、同じ電車に乗っている。少々の違いなどとるに足らぬことという感覚が芽生えるのは自然のことだ。
ひとつひとつが個別で、ひとりひとりが個人の社会で、だから「たいしたことじゃない」「普通だよ」と確認し合うことが知恵なのだろう。この言葉が潤滑油にもなっているのだろう。
現にこういうケースだってある。
雑貨店の狭い通路、客が商品を見て回る。肩にかけたバッグがうっかり飾り棚の陶器に触れ落下、割れた破片が飛び散る。気づいた店のおじさん、客に向かいニヤッと笑って「セ・パ・グラーヴ」。おじさんは破片を棚と床の隙間に足で押し込み一件落着。
割った瞬間、客は身を固くし当然お咎めを覚悟する。緊張の一瞬。そこへ天の声「セ・パ・グラーヴ」。被害者のおじさんが客に「たいしたことじゃないさ、大丈夫だよ」と声をかける。こんな場面でフーッと救われた人は多いのではなかろうか。
同じ「セ・パ・グラーヴ」でも、彼らは自分に非のあるときは決して相手を見ない。伏し目がちに視線を外らせる。相手を許すとき、あるいは共犯者になるときには、目を大きく見開き、茶目っ気たっぷりに目を覗き込む。
今日も舗道を歩きながら、この街って飽きないなと感じる。