メトロ劇場

階段を降りる。改札口までの通路の一角、アラブ系の若者が小さな台に果物を並べて売っている。通りかかるとにっこり「ボンジュール、マダム」、はにかみながら声をかけてくる。バナナ、メロン、桃、プラムなどほんの数種類。「ボンジュール」と返し、熟れ過ぎのバナナに目をやりながら改札口へといそぐ。

改札機に切符をさし込むと、行く手をはばむポールに身体を押しつけ、回転に合わせて構内へ。

ときおり、長足で簡単にポールをまたいで越える人。前行く客の通過タイミングを見はからい、影のように体を添わせて一緒に通ってしまう人。どちらもいわゆる無賃乗車の常套手段。

駅構内に入ると、階段上で大きなスーツケースを脇に若い女性がホームを見下ろしている。観光客の多いパリ、重そうなスーツケースを引いている人は多い。にもかかわらずエスカレーター設置の駅は少ないため、こういう光景をよく目にする。

そこへリズミカルに身を揺らせた青年が通りかかり、スーツケースを無造作に持ち上げ踊り場まで運ぶ。いったんおろし、再度持ち上げるやタタタッと段を下りホームに着地。追いかける女性が「メルシィー」「メルシィー」とお礼をいう。青年は微笑みながら「どうってことないさ」、さっと足早に立ち去る。

途方にくれた瞬間に不意の助け舟、素早い行動力、自然体の受けこたえ、引きぎわの爽やかさ‥‥彼には人の気持ちをつかむ充分な要素がそろっていた。彼女は今日一日幸せな気分で過ごせるだろう。

青年の行方を目で追っていると、電車が風を切ってホームに滑りこんできた。われに返る。

電車が動きだすや、くたびれた洋服の中年男ふたり組登場。乗降口デッキのポールとポールの間にカーテン状の布を巻きつけ、手早くにわか舞台を作る。ひとり一体ずつ手にはめたボロ人形を操り、芝居の始まり。

手垢でよごれた人形の顔、毛糸の髪の毛はもつれて絡みあっている。人形を振りまわしセリフをかけ合うが、疾走する電車の音にさまたげられ何も聞こえない。ふた駅間の小劇場。

乗客は舞いあがる埃に咳き込みながら、目の前の出来ごとを呆然と眺めるのみ。ふたり組は停車寸前に紙コップを持って乗客のあいだをひと巡り、次の駅で素早く降りていく。

いれかわりに、猫足の布張り椅子をかかえて乗りこんでくる客。蚤の市かどこかで手に入れ、家まで運ぶのだろう。次に黒い大型犬を連れた客。畳三畳分ほどの広さのデッキはそれだけでいっぱいだが、さらに多くの客が続く。みな静かに状況を受けいれ、電車に揺られる。

椅子と犬が降りた後には、双子の赤ん坊を乗せたバギーが乗りこみ、姿見用だろうか大きな鏡を引きずりながらムッシューが駆け込む。無包装のふち無し鏡はガラスの切り口が光る。バギーは双子用だから2倍の大きさ。

周囲を見まわすと、片隅に立っている学生は分厚いペーパーバックに夢中、隣のサラリーマン風男性はペンを片手にクロスワードの世界に没頭。髪をヘジャブで覆ったイスラム女性は彫りの深い顔立ちでどこともなく宙を見つめている。電車の揺れに合わせてそれぞれが静かに時をやり過ごす。

小ぶりな車体、狭いデッキはひと駅ごとに目まぐるしく表情を変える。こみ合うかと思えば、すっと人波が引く。動く小劇場でもあるから芸人、ストリート・ミュージシャン、施しを乞う人などが入れかわり立ちかわり出没。

その限られた空間を調節しているのが折りたたみ可能な座席。デッキを囲むように2席続きの椅子が四隅に設置されていて計8席、映画館の客席風。一席ずつバネでたたまれ、座るときは手で引きお尻をのせる。立ちあがるとバネの力でもとに戻り、それだけ空間が広くなる。

覆いのビロードは擦りきれている車輛も多く、よごれも目立つがパリジャンはこの座席の扱いが実にうまい。機をみてさっと立ったり、再び腰を下ろしたり。その技はみな心得ていて絶妙。しばしば起こる珍事もうまくやり過ごし、何事もなかったかのように空間をおさめる。

必要な人には席をゆずり、空席が多いときは自分の隣の席に犬をちょこんと座らせていたりする。犬は甘やかされた小さな子どもたちより驚くほどお行儀がいい。「伴侶」、コンパニオンとして認識されている犬たちは飼い主とどこへでも一緒。だからこそ躾は厳しくされるのだとか。

すいているのどかな時間帯には、大ぶりのアクセサリーを身につけたふくよかな女性二人がデッキ席 に座り、楽しそうに喋りながら巻き寿司を口に運ぶのを見た。デザートにプリンまで。

車内は各人好きなように利用していながら、その場の様子はしっかり把握、混乱がおきないよう瞬時に最善の行動をとる。無関心なようでいて、じつは静かに周囲に注意をはらい必要な人には躊躇なく手をさしのべる。シトワイヤン(市民)の精神が息づいていると感心する。

なん幕ものドラマを体験して終点駅につく。終点は始発、ここでも興味深いシーンが繰り広げられる。

清掃員が乗り込み、雑誌、新聞などを回収し目につく大きなゴミを拾う。しぼりが甘い雑巾でポールの中央部分だけをさっとぬぐう。「拭く」と言うより「触れる」、その程度。

出発のベルが鳴り、清掃を終了した電車は再び客を乗せて発車する。コーヒー片手に乗り込んでいった女性運転手。二の腕がっちりの彼女が操るメトロで、今度はどんなドラマが繰り広げられるのだろう。